タペータム

2008年10月22日 ゲーム
タペータムです。
網膜の後ろの反射板です。
目が光る。

イルカが言った。
岩の陰に住むイルカ。
意図はない。

ごんっ

2008年10月20日 ゲーム
年だ・・・
鼻毛が一瞬で伸びる・・・

正面から来る自転車に乗った短いスカートの女子高生のパンツは
がんばったら見えるのか、どうやっても無理なのかはっきりしてください!!!
今日もにっちもさっちもいかんかた・・・
確かに全てを会得するには無限の時間がいるかもしれないけど、
全てを会得することは一番重要なことじゃないわけだ。
一番重要なことはほとんど時間がいらなかったり、
もしくは無限にあっても足りないもんは足りないのだろう。
99%は時間が重要だけど1%はそれ以外なんですね。はい、進みません。
作曲者が痛かったり臭かったり共感できないくらいで
音楽を楽しめないなんて馬鹿馬鹿しいとは思わないか。

入念な検証によってこのたび発覚した方程式によると、
音楽スキルと人格のイタさは正比例するのである。
誤解されることの無きよう。
つまり、あれは嫌悪しなくてもいいものだった。
それだけで新世界が開ける。

恐れていた変化が今まさに起きているかもしれない。
未知の知識を前にして、それがどうでもいいように感じてしまう。
これは大人化だ。既知範囲外への興味を失わせ、
不安定な思想を芽生えさせないようにする。
僕の考えではそれは遺伝予定で直接脳に作用する。
逃れるすべはない。神が数多仕掛けた人を木偶とさせる罠だ。

最も恐れることはそれが出来ていないにもかかわらず、
出来ていると自分では満足することだ。
腐った目をしながらそれを笑ってごまかすことだ。
楽になるな。どんどん苦しくなれ。
たとえ地球で苦しむ最後の一人になっても、
誰に耳も貸す必要はない。最善手を打ち続けるのみ。

最近まれに人間の顔面が、
脳をのせて各デバイスを配置した箱に見える瞬間がある。
このような知覚は僕にとってはグロテスクであるどころか、
より真実に近い姿としてそれまで以上に愛情を感じるものなのである。
残酷や憎悪とグロテスクは違う。
基礎や過去を学べという忠告はあまり好きではない。
そういう人たちがいう基礎や過去というのは、
ただ単に自分にとっての覚えやすかった基礎や過去でしかない。
真なる基礎と過去について、その有用さの線引きは
彼らの現時点でのスキルの都合のいい限度で引かれる。
基礎と過去を最も軽んじている者こそ彼らなのではないかとさえ思ってしまう。

気ばかり焦る。
将来必要以上に技術を費やした作品は無意味なんて通説が共通認識されたらどうなるんだ・・・
そうじゃないかと思いつつ自分を信じれずに真逆の駄目なことを続けていていたなんて最悪だ。
すごいとか不可能だとか思わせる仕組みは分かっている。
本当は真に驚くに値するべきものなんてない。
驚くというのは理解努力の放棄だ。
僕は自分が楽をして楽しむためにわざと驚くに身を任せている。
しかし誰が責められる?
いや誰にも責めることなど出来はしない。
だがだからといって責められないなどということがあっていいはずがないのだ。
誰もいなくても僕には僕がいる。

あまりの作品形態の多様さに立ち尽くす。あるいは立ちすくむ。
世界は広い。
宮本茂さん程度を天才だなんて評する閉鎖空間など論外だ。
さまざまな物。さまざまな思考。さまざまな生活。
脳で彩られるありとあらゆる活動。
全て知り、理解し、試し、力になりたいと思う。
でもそんなことはできないのだ。

この世はますます深く、力はただただ弱るばかり。
もはや見つかる宝石は値も評もつかないが、それでも出会う何より美しい。

樂のなる木

2008年10月15日 ゲーム
ずんずん焼糞になってきましたよ。
素面で真人間みたいなことできるもんですか!

ああ!この点と点を結んで形を作るような惰性が
情報の薄っぺらい死に物だとわかっていてもー
どうすれば高周波で意識を注げるかわからないー

一気に一単語一単語づつに分解しても優雅な文章は出てこない。
全体として懸命かつ斬新に構成できなくてはならない。
それを可能とするのは何か。
限りなく精密な必然の組み立て。意味の練り。
それすなわち修練あるのみ。ぎゃふん。

つうか文章というのが学習媒体として効率悪すぎるんだよな。
助詞とか文脈の処理が、重箱突き魔の僕らにとって消耗激しすぎる。
内容の理解には苦労してないはずのところでも、
文章を解読してるだけで異常に血糖と神経伝達物質が消えちまう。
表図&箇条書きこれ。

結局のところ、アートとアートは別物で、別物であらねばならない。
それが結論。

手段は限りなく手段であって、絶対に目的にはなりえない。
手段の目的は手段で、目的の手段は目的以外にありえない。
それが結論。

グローバルランキングが面白くないのは自明だ。
褒め装置というゲームの一特性を認めれば、
大多数の褒め機会を奪うランキングはまず面白くない。
少なくとも面白くはないのだ。

b-survise

2008年10月14日 ゲーム
萌え系バイナリアンてw

すげえなぁ。すげえなぁ。すげえなぁ。
なんか久しぶりに心底すごいなあと思ったというか
別世界だなあって思ったというか駄目だなぁ。
ぜんぜん駄目だー
ぜんぜん子供だなぁ。
地道に学ばないとなぁ。
先天でないのはどうしようもないとして、
後天なら学べる幸せを喜ぶべきだよなぁ。

七段階形式にしてからオナニー理論がうまく機能しているぞ!

後で目を伏せたくなる日記を書くのはやめましょう。
といいつつ書くのがb-surviseクオリティ。

すっかり風呂敷を広げすぎて手に負えなくなる経験を通して、
発想からこじんまりする癖がついてしまっていたけど、
スペック以上のことしないと成長なんて望めないよなあ。
せめて個人の範囲内でやることはスペックオーバーの計画立てるの
恐れないようにしたい。
で、そういう無理をプラスに変えるのに必要なのが計画性で、
やっぱ一時的な自主的負荷じゃぬるま湯だ。あたりまえだけど。
むーん!

リアルポクテwwwwwwwwwwwwwwwww

うむ、感心するくらい独創性のないメロディーしか作れない。
違うぞーなんか違う。
脳みその深部へ行くのにある程度までなら音楽は役に立つが
それ以上はやはり邪魔で役に立たないとしか思えない。
もちろんそんなもの関係ないつもりでやるけど、
このゲームは三線以上向こうののりで基盤はつくるので
やはり音楽は入れないほうがいいのかなぁ・・・
いやそれとも音楽の可能性は無限大で力が足りないだけなのかしら。

僕がコンピューターゲームに見ている可能性というのは
実は面白いというものの範囲の中にあるものではない。
人という土台の対象がある以上、物事のあるべき可能性というのは
必ず制限される。ここで発想の転換から見てみると、
実はいわゆる面白くするための最低限のルールを一つ無視するごとに
ゲームでできることは増えていくのだ。

作りたいものと作ってる形が一致してないんだよな。
もう僕の中身は変わっちゃったんだ。
それなのに以前の好みと同じものを作ろうとして認識が食い違う。
形にすることが何か違うって感じがする。
照合の正否にすごく神経質になっていて
でも感性と創作物というのは極厳密には別物なのは当たり前なんだ。
意味付けやモチーフといったところでそれが意味そのものを
表現するのに足りていないのは明白だ。
創作物は創作物独立のそれでしかなく
それ以外の意味をもたせるなどただの茶番ではないか。
確かに創作物は意味を付加するがしかしそれは単純なものだ。
単純では足らなくなる時は来るし創作物は人の趣とは別の道へと進み始める。

どうでもいいけどネット活動始めた頃の理由って
特殊な部分をリアルから隠しておきたかったからなんだよなあ。
基本的にアピールとは無縁の活動なんだよ。忘れてたけど。

たまに誇ってる人とか見て思うけれど、なぜかわからないが
それが良いことであっても皆と自分が違うことにいつも負い目がある。
最先端を追っている時に、とんでもなくローカルな方たちに会うと
自分のやっていることをまとめて足げにして
一切気取られることなくローカルを絶対真として崇めなくてはならないと思ってしまう。
僕は気質が真面目な生徒だ。これではいけないと思う。
でも生徒に看破されて気落ちする教師の顔を見るのは死ぬほど嫌いなんだ。
何かで勝ることを誇る気にはどうしてもなれない。
そしてどうやらこの性質は他のと比べてもかなりのマイノリティーらしい。

死ねる・・・

延々と自分がいかに特別であるかを書き連ねた。
完全なる自己完結を打ち壊せるものなどない。
もはや祈ること以外にできることがあろうか?

日日日91

2008年10月13日 ゲーム
誰でもこういう経験はあるだろう。
鼻糞をごみ箱にすりつけようとしたら
落ちかけの充電器のコンセントにすりつけていたとか。

誰でもこういう経験はあるだろう。
肩揉んだりすると腰のあたりからじわーっとして気持ちいいやつ。
調べてみたがこれ副交感神経のアセチルコリンじゃね?

誰でもこういう経験はあるだろう。
00のOPを口ずさみかけて、
何もかも――、・・・。

誰でもこういう経験はあるだろう。
乳が・・・

wkwktktk

2008年10月9日 ゲーム
明日は東京ゲームショウですねですね!

いまさら過ぎるけどBRSかっけーなあ。

いまさらリア充復帰とかしようともしたいとも思うわけじゃないけど、
一度ネットのない生活に戻ってみなきゃなーと思う。
ネットないと死ぬけど、どうせ死んでも何かやるだろうから、
一回死ぬくらいで馬鹿が多少改善するならそれもいい。
ちょっと離れることで改めてネットを客観的に見てみたい気もある。
ネット習慣についてあと一歩引いて分析してみるべき時期にきていると思う。
僕らはネット潮流の中で年を食ってきたわけで、
一歩引いたつもりでも内側からしか見てない部分が多々あるように思う。

いったい動物や赤子は何を見て人を判断しているのか常々疑問だったけど、
彼らはどうも感情が直接出ているかを探っているようだ。
大人の世界では知性や思考は善いものとして考えられているが、
彼らにとっては逆で、感情が思考でブロックされているほど悪として警戒する。
価値観がまさに逆なんだ。
思考の内容なんか関係なく、思考しているかしていないかが危険度の指標。
それが思考を主としない生き物の論理。

それというのもこのPC環境の整わぬことのなんと無力なことよ!
びっくりするね。デジタルツールがないと何もできん。
ガンダムの偉い人がアニメないと犯罪者になってたっていうのわかるよ。
今まで途切れなく吐き出してきた所が突然ふん詰まったらやばいわ。
恐らく僕は一生を通してデジタルコンテンツを最も愛すると思うけど、
まあこの世代は自然とそういう人は多くなるだろうけど、
って妙に理由をこじつけることもないか。
コンピューターはすげえが、おんぶにだっこじゃ駄目だ。
リアルが必ずしもネットより広いとは思わないけど、
僕がネットより広くなければだめだ。
じゃなきゃネットの凄さを正当に賞賛できない。

フェイサー

2008年10月8日 ゲーム
たまに気になることがあってそれはただ何も考えて作っていなかったものが必要に迫られていざ後付けの理由を押し付けるとなかなかしっくりいって、いやというかむしろこれはなんてエレガントな本心だと感心する現象です。これは自分ではコントロールできないけれど、極まれに起こる。
おいあれ20点坊主だと思ってたけど尻じゃねーか!!???
いや尻だ!
ケツに決まってる!!!
いや待てよ・・・あれがケツだということは・・・
ミモラちゃんが受け・・・だと・・・?
そうか!
だから奈良札!!!!!!

なんてワクワクしない企画だ・・・
お金を取れる企画を考えると、
うまく互いのメリットを満たしあえるアイデアが出てくるんだけど、
それがとても奇麗で逆に面白くないことがめちゃくちゃ多い。
わかっちゃいるんだけど・・・事実はただそれであって、
理屈的には要求を満たしているのに、どうしようもない他人行儀さが浮く。
義務の取引きとでもいうのだろうか。
やはり表向きの取引き以外にエゴというのはいるんだ。
それは精神的な部分の取引きで、言葉で言ってみればお得意様とか
そういう概念であり、表面的な対価の釣り合いだけを満たせても
心の部分で取引きできてない商売は次につながらず息が切れて死ぬ。
なにいってるんでしょうわたしは。
ケツだよケツ。

GTYが話題になってないだとっっ!?
と切れかけたが十分話題になってたのでよし。

どう考えても劇的な効果のアイテムが出るはずないのだけど、
新アイテム出るたびに過剰にwktkしてしまう現象に重要な何かを
感じとりながら悪魔の花嫁プレイすること幾星霜。
おっぱいでけーなクソ。

いーね

2008年10月6日 ゲーム
最近の腐女子はうんちが好きすぎるよ!

モチーフ的に一線を画すのは、
資料さえあされば難しくない。
世界観的に一線を画すのは、
難しいが丁寧に時間をかければ不可能ではない。
やっぱ一番頭使わないといかんのが、ゲーム的な一線か・・・

データとデータの表れかたと価値配分。
理屈で考えるな―理屈は前提だ―もはや意識なしで全能だと考えろ―
このもやもやしたものを死やら脳やらを超えるほど
増幅することにだけ意識を向けろー

蛮勇をもってセオリーを打ち破れー
感覚を組み合わせろ。場所、状態、心情、尖った色を探り当てろ。
今のこの気分にぴったりの、完璧に合致する具体化。
出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ。
今もってる知識を全部別の視点の別の状況で、
いくらかの部分を全体として、未知の良色の組み合わせを探せー
世界を巻き込んで小さくしろ―中規模に―大規模に。
味が薄い。
何かだんだん生き急いでくるというか、
単位時間当たりの情報摂取量みたいなものを気にしてしまう。
ただ量があればいいってわけでもなくて、複雑性、
今までに取った複雑性と独立の、も持っていないとだめだ。
文章はより淡白でストレートでないと無駄が多い。
図画はより多く、大きく、多角、多種。
どうしたことだろう。
つまり、面白いということを押し拡げた。
すんげー奥深くのロジックを日常に適用して、
日常で世界全部のうま味をしゃぶり尽くそうというのがこの魔法の概要だ。
ぜんぜんうまく働いていない。味が薄いままだ。

人はけしてそのものの情報を自然にゲットできているわけではないが、
そのものでも今では薄い。
そのものでは駄目だ。
この程度の濃さでは、向こうの方が面白いことになってしまう。
向こうの方が面白いんじゃ、やはりこの世は無為になってしまう。

この世は口だな。
中身は自分でつくらにゃならん。
物質は人の面白さには勝てん。
めんどくさいなぁ。
しかしてこの神秘的な面白さは何によるものなんだろう。
やはり根本原理よな。
そう思うと他に適用するのもいよいよ困難だなあ・・・

秋刀魚の約束

2008年10月4日 ゲーム
超距離変換によってフレーム問題に勝利した!

この勲を材料に合成コマンドで創作不信を切り裂くスーパー武器を作る。
簡単なことだ!
セロトニンサイクルを通常値へ修正!
うおおよみがえれ私ーーーー!!!!

うあがうあが
だいたい入れたい要素を書き出して、
それを繋ぐ形で作っていくことが多いと思うけど、
結局のところ単純にその密度によって面白さが決まる。
量ではなく密度であって、つまり要素の並べ方や
そもそものそれぞれの親和度によって、
つなぎの部分が密度が高くなるほど厳しくなる。
こだわりというのはその一定線に引かれている気がする。

僕らは人以外のものに気心を通わせることで
相互に気力を練り上げるのであって、
場所や物が変わることによる弱体化は避けられない。
それは事実であって自覚すべきだ。

更年期障害ってこんな感じなのかしら!

およそしんどいといえることは何の答えもくれなかった。

論理などただの前提だ。
着眼点こそ真の術なのである。
どれだけの偉人がこれまでにどこまで到達したかなど、
何の気休めにもならない。
勘違いしたまま死ぬことに比べたら、
世界観を共有できない寂しさなど何でもない。
魂を売り渡して得られるのなら、売ってでも得たいと思う。

いやいや。

またうやむやにするのか・・・
気分の切りかわりで、元気な自分へまた逃避するのか。

過ぎた自然への傾倒はただの偶像化だ。
鯨のジャンプに感動できるならなぜ溢れる風呂の湯に感動できない?
それでもないがしろにするよりはずっとましだけれど。

心臓を引きずり出して、これを使ってある魔法を使う。
究極の真実のパワーというものが解放されるとして、
それはこれまでの感覚では言い表せない現象を想像させるだろう。
そういう時、やっぱり普段はまだまだ殻の中にいるのだなと思う。

究極の何かを想像する、というのは割合と大事だ。
今ある余力、知識、経験、計算力、発想力、激情を全て最大に発揮し、
それを注いだ何かを想像するというのは、つまり今現在での
自身の限界を知ることだ。
少なくともどんな何かの壁を突き抜けた先へ立つにはそれが必要になる。

こんな僕をやはりその先に立つ人は、
単純な価値観に目がくらんだ鬱陶しい人間に見るのだろう。
生き方に何が正しくてどうあるべきかというものはない。
つまり、無為だ。無為を受け入れぬことには始まらない。
しかし誰もが、生物学的レベルでは自分の生き方だけを正しいとしか思っていないのだよ。
悪を悪といって自らなす者は、それを正義と思わずに実行できるはずがないのだ。
体というものは思ったようにしか動かないし、
結論というのは、それがそうと導かれるからそう決まる。
無為を受け入れ理解したのなら、体も頭も寸分と動くはずがないのだ。
動けないのではなく、動かない。

無為に食われるというのか?
たかが無為ごときに立ち往生させられるというのか。
ならば僕は無為になれるのか?
それとも引き返すのか。
いいや、いいかげん無為を突き破る。

ずっと宙に浮いた感じがしている。
リズムがとれない。
拍の、なんていったっけ。振り下ろす前の振り上げ。
それをずっとやっている気分。
手を下ろせない。リズムがとれない。打ちつけられない。
振り上げたエネルギーは、打ちつけられるとき、
何か成果物に変化する。エネルギーだけためて、
それを形にしないでだだ流している。
まるで塞がらない出血のように。

違う。
これは無為じゃない。
フレーム問題だ。
ついにフレーム問題が完成してしまったのだ。

ああこれは喜ぶべきことだよブー太君。
人間はいかにしてフレーム問題をクリアする初フレームを手に入れたのか。
それはまさに知能の始まりといっても過言ではない。
化学進化によって成立せしめたそれは、
しかし人間には越えられないフレームが科せられていることの
証明でもあったのだ。
もし全てのフレームという枠を破ることができたのなら、
それはすなわち、フレーム問題に突入しなければおかしいということになる。
つまり振り下ろすことのない拍だ。

.intersell-j.zz.sc

2008年10月1日 ゲーム
rr

ぽお、

すいに  すどきに

ずっと作ることのほうが孤独で、寂しがりには向かないのだと思っていたけど
よく考えたら作らない方が、少なく同じ人としか遊べない。
本当は寂しいから作るのではないかとか思う。
そのうちだから、作ることの多数と、作らないことの少数を
選ばなければならない時が来るんじゃないかと感じた。

時間の使い方はリアルで、時間は大事なものの指標で、
時間を割かれないものは大事でないものの裏返しになる。
作ることに限らず、素手より外側のことに時間を割くのは、
手近の人にとってとても残酷なことだ。

きれいごとを排するなら、遠くの多数を喜ばせられるなら、
近くの少数を喜ばせることなんかはずっと容易い。
その容易いことすら惜しむほど時間を削出することに、
作り手のおぞましいエゴがある。

華やかで、濃密な時間をすごすほど楽しいことはない。
どんなに辛いことでもそれは幸せなことだ。
本当に辛いのは退屈で、その感覚はきっと本当の意味では
作り手には知りえない。
それは退屈の退屈で、退屈の中で退屈しているから、
寂れて、薄まってゆく。
本当に辛いのは退屈で、その感覚は絶対に作り手には分からないにもかかわらず、
作り手は華やかで濃密な時間をけして手放そうとはしない。

現実は退屈なものだ。
悲しく思うし、憤りも感じる。
なぜ誰も彼もが輝けないのか。
一人でも楽しくないのなら、世界に価値などあるまいに。

ひたすら何もせずにしきりに考えるのは、
作るって何か。ということです。
なぜ作ったものは売れるのか。
人に見せることはどの程度の意味をもつのか。
それは感情のはけ口なのか。
芸術なのか。
くもった窓にへのへのを描くのとビーナスの誕生はどう違うのか。
それは無意味なのか。
共有なのか。
自慢なのか。
ただの楽しむための道具として機能すればいいのか。
追求なのか。
趣味なのか。
憧れなのか。
空想世界なのか。
切望する何かを訴えるための手段なのか。
技巧的感嘆を呼び起こさせ魅せ楽しませるものなのか。
やらなかったら何か悪いことがあるのか。
なぜやった方がいいと感じるのか。
ただの生理現象なのか。

その全ての問いに答えることがかなわない。
それにもかかわらず、作らないことを想定した未来を描いたことがない。
とてもとても不安で、混乱する。
ついにその混乱は極限に達し、何も手につかず、
ひたすらしきりにその答えを問い続けるだけの日々が続く。

ケーワンを睨みながら、どこかにその答えが見いだせないか
問い続ける。
彼らはなぜ目指し続けられるのか。
不思議でならない。あらゆる人たちの忍耐について思う。
その過程と日常を想像して、それを維持するのに
彼らが何をもってして可能にしているのか、
観察することで、どんな方法であっても見つかるなら、見つけたい。
あのような台詞がまず魔裟斗選手から出るのは、
同じ問いをやはり何百何千と繰り返しながら、
しかもまだ明快な答えに至っていないからなんだろう。
微妙なニュアンスからまさにそう感じた。
迷っているがゆえに、続けることが大切だとは、言えない。
続けていれば何かしらの節が得られる。それだけしかわからない。

現実に向かい合うことや暗い問いに耳を傾けることは
ネガティブとは違う。けどこれはそうだ・・・
同じ事実でも他にいくらでも楽観的な言いかたはできる。
不厳正な煽りだ。とてもとてもネガティブな方へ傾いている。

行動の起こりは感情だ。
それに付随する技巧や洗練、勝敗、説得力等全てはただの結果の
バリエーションに過ぎない。
それは実はなんとなくわかった・・・
感情が完全に白紙化されればいずれ考えることもなくなるだろう。

ひたすら無念だ・・・

クオリティは感情のためにあったというのをたまに忘れていてしまう。

背中からぞわぞわいろんな感情が這い上がってきて、
すっかり黒く硬く冷たく凍りついた心臓とせめぎあって
体の中でスチームがわき上がっているような感じがする。
本心がわからない。

もしかしたらこの非同一性は本質なのかもしれない。
本質的に人の心というのはさまざまな臓器、分泌腺、神経系が、
それぞれに局地性を保っていて、心が統合されていないのは、
元々そういうものだからなのかもしれない。
体は一つだからよくその住人が一人だと考えてしまうけれど、
人格を統一するも何も、器質的に分離している、精神的にいえば、
元々本質的に異なる核を持つ複数の論理体なのではないのだろうか。
それを不確かな状態で、自分だと思っているんじゃないだろうか。

いや、それは問題じゃなくて、
今重要なのはこの凍った心臓のほうをどうやって解かすかなんだ。
感動結構。しかしこの黒い心臓が最も強い決定権を持っていて、
逆説的にそれは最も重要視している感情に他ならない。
そしてそれはもはやとても感情に見えないほど変質して異質なものになってしまっている。
そしてそれは、めちゃくちゃに荒廃してしまっている。
どんなせせらぎも一瞬で涸れ上がってしまうくらいに。
そしてそれは何らかにも傾向を持つものではない。
真理に触れて凍結した宇宙の寒さなのだ。
宇宙の寒さは地球の暖かさを否定しないが、
地球の暖かさが宇宙の寒さを和らげることはできない・・・

ここは宇宙だ・・・
地球が手招きして下りてくるのを待っている。
「迷うときはあってもいずれ答えを見つけ出すだろう」
という幼稚な予定調和が、息苦しい地球へのレールをひく。
・・・

リンガートゥ

2008年9月30日 ゲーム
感動はなぜすぐに消えてしまうのだろう。

それを少しでも先延ばしに、少しでも維持しようと、
人はそれを繰り返したり、関連のあるものを知ろうとする。
しかし感動はそれを長引かせたり維持しようと働きかければそうするほど、
余計に異質で退屈な何かへの変化を速めてしまう。

感動風化速度。
というパラメータを仮定すれば、人間のさまざまな特性を
一元的に包括できるかもしれない。
好奇心、依存性、先進主義、保守派、むらっ気、忍耐力。

感動の持続力の強い人の作品に憧れる。
おそらく感動風化速度の早い方の僕にとっては

感動の先に救いがないのは確実だ。
救われたいなら感動には頼らないほうがいい。
けどそれが救われないがゆえの人の特性でもある。
人は弱いとはいえない。まれにとても強い。
全てと対等に戦える強さを発揮しさえする。
けどそれは長続きしない。

どうすれば感動を維持できるのだろう。
どうすればいつまでも忘れないでいられるのだろう?
寒いもんは、寒い。

ああ無理、今日ばっかりは眠す。
それに体勢も万全なほうがいいはず・・・
と思いかけていたのを、今回は本当に苦労しました
を見て思い直した。
刺されるほうも気合入れるよ!

第五期お気に入りが、全てフォルダ分けされずに入っているという
カオス―ブログやDBや誤ドラッグで入ってしまってそのままのページなど
な上、それがばらばらにってああどうでもいい・・・

4時です。
ああ、この上なく満足。

天然三念頭

2008年9月28日 ゲーム
気づいたらアーニャの食い込みだった。
一体何をryryry

メメント・モリが美術界でいうモハメド・アリ的な偉人だと思ってたら
なんかあれな標語で裏切られた気分だ!

危険!URL!

2008年9月27日 ゲーム
ちょっと気になったので真面目に調べてみたところで
そう何かが変わるわけもなく\(^o^)/

つまり次元進化的に四元数の計算の有利さが
情報エネルギー的により安定であるために、
世界は4次元に収束したのではないかとか陶酔したかったのにあびゃびゃ。

感性は正しい。
と昔作っていたものを聴きながら思った。
というかなにか。
僕は作るという行為をしているのにもかかわらず、
感性という言葉を使わずにうまいこと済ませられると思っていたのか。
だってあいつ、気まぐれなんだもん!
プレッシャーにも弱いし!振れ幅すげーでけーし!
その不安感に耐えるのがクリエイトってもんでしょうがー!
うっうっ、なんだよ・・・結局なにか足りないものは出るんじゃないか・・・
死ね!死ね!コオロギしね!

意志とジャンケンをたぶんはじめてやってみたものの、
サキたんに殺されまくることしきり。

なんだか今とてもよく分からない状態だ。
人の状態は楽しいとか暇とか悲しいとか嫌とかウキウキとか
あると思うけど、今なんだかよく分からない。
初めて訪れる感覚かもしれない。
あえていうなら「無」という感覚に近い。
僕は普段、強調に""を使うけれど、これはまた違って「」だ。
いろいろと心を乱そうと試しているけれど、
実際に乱れているけれど、同時に完全に静止している。
乱れと、静止が、分離している二面性は珍しいことではないけれど、
今は、二つが混じり合っている。
焦っているのに、焦りがなく、集中しているのに、集中していない。
感嘆しているのに、感嘆していない。
しかもこれはけして悲しいのではなくて、イライラしている訳でもない。
もちろんイライラしてるんだ。でもそれは―
すごく嘘っぽい。
全く中二的表現だが、今までの二層でできていた心を
三層目の心が包んでしまったみたいだ。
その三層目の心がどういった特徴を持つのかさぐれないでいる。
その心を揺り動かすのに何とか働きかけたいが、
いろんな感動や、圧力や、思考は、二層目の心に作用してばかりで、
三層目の心は奇妙でよく分からない状態のままでいる。
何か欲しがっているような・・・したがってるような、
よくわからない。ただ、今までとは違う何か、
もっと動詞的な意味で、得る、とか、知る、とか以外での何か、
よくわからない、感じる、でもなく、想う、でもなく。
計れないでいる。何か別のものが生まれてしまったようだ。
それこそ、はじめて生まれ出でる観念体みたいなものが。
今までの。既知の方法論では通用しない。人としての常識が
通用しない。
意識とは脳の一部でしかない。
それほど神妙なものができるはずはないのだが・・・
ダビデ像を彫る男の漫画を立ち読みした。
人を超えようと思った人間は何人いたのだろうか。
神になろうと思った人間は何人いただろうか。
神を超えようと思った人間はいただろうか。
神の先に行った人間はいただろうか。
不老不死など神が許さぬというが、
死なぬごときで神が超えられるなら世話がない。
地球の生態系を根こそぎ崩壊させたぐらいで、
しゃしゃり出てくるほど神は仕事熱心ではない。
よくわからない。一層目、二層目、三層目・・・
人とは違う景色を見たいと思って生きてきた。
けどそれは幻で、誰もが全く違う景色を見ていた。
その中で誰もが皆同じ景色を見ていると思っていた。
それによって生み出される錯覚の社会体系。
自己とはなんなのか。
僕は僕の世界の中での神を越えた。
しかしその神は他の誰かの世界では、
人の通過する一部の初歩的な領域に過ぎない。
自己は錯覚し、自己は気分に左右され、自己は神妙にもなる。
それを確定するには論理に頼るしかない。
しかし論理には無数の穴がある。無限の定義を必要とし、
人が扱うには無限の省略が必要になり、それは
錯覚以上に馬鹿馬鹿しいものを見せたりする。
この世にはたくさんの○○がある。
というような台詞は、飽きた。厳密には、飽きていない。
すでにそれは内なのだ。それは、もう私のナカにある。
吐き気がするほど、しんどい。
今までのやり方では、通用しないことを、理解しなくてはならない。
灰色の、神、普通に考えて、とるにたらない  地球 すべて
拡張されれば    自我を離れれば当然の論理に
自我ゆえに成り立つ論理にしがみつく しかし
その論理には論理としての力はない
力を持つのは自我を離れた論理である
人としての 人間としての見識を離れた末の論理である
それが二層で 第三の層には それがない  それはすべてだ
うちのことだ  ナカにある
ナカからは  外に出られない  外に及ぼすことはできない
ここは   どこ だ

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