なし崩し的に死に続けていた鈴虫が
最後の雌雄二匹になってぴたりと止まって5日ほど過ぎている
これが愛か?
それともよほど仲が悪くて未練で生き延びているだけか?
ただの寿命か?

もしや恋とは無様なものなのでは?

よく考えると恋愛感情以前に人間関係の構築意識が希薄なのかもしれない
別に人が嫌いなわけではないし、人見知りでもないし、コミュニケーションが苦手でもない
しかし関係を構築する意味を理解できない
というかなぜ皆が皆、関係の履歴を維持したがるのだろう?
その場その場のやりとりに何の不都合が?
なぜ会う機会が失われてからも関係の維持に努めるのだろう
消去法的に考えると、それは恐らく人間性に魅力を感じての行為なんだろう
ではなぜ僕は人間性に魅力を感じないのか
そこだよな、根本的な欠陥は
人間に興味もってないんだ僕は
厳密には個々の人間に対する知的興味はあるが、個体として興味がない
なぜだかわからないがどうも僕の欠陥はこの点にあるらしい

実際これは罪悪感以外の何物でもない
僕は嫌いでもなく、好意的ですらある相手にも関係の維持の必要性を感じないのだ
これは大変な裏切りだと思うよ
しかしいかんともしがたいのも事実だ
何の意味も感じないものを部屋に延々と飾り続けられないように、
何の感情も伴わないことを生涯続けることはできない
だから元から好意を表現しないのは僕なりの誠意だと思ってもらいたい
少なくとも社会的譲歩のつもりだ、これでも

コメント

nophoto
人格破綻
2011年10月22日11:57

人間が描けないなら劇を作ればよかろうなのだ
比較するのが好きみたいだから

ブー太
2011年10月22日18:40

劇も作りながら人間も描きたいんです!
劇の方が比較的なんでしょうか

nophoto
人格破綻
2011年10月22日22:34

そこに人間は居ない
劇に魅力を感じずにはいられません

ブー太
2011年10月22日23:56

人を成さない劇は劇足りうるのでしょうか
むずかしいです