システム作んのめんどくさいよー
矩形のピクチャを用意して、端を凸状に見えるよう乗算ピクチャをかける
押した時は凹影をつけて共用すれば、
手軽にボタンタイプのインターフェイスできるか?
久しぶりに迷いを感じるな
大元からのゲームの方向性としては、
瞬間的に反応が返ってくる弄りゲー
反応に時間差がある戦略ゲー
時々の戦術で勝利を目指す戦術ゲー なんかがあって、
それぞれにストーリーやらシンボル化なんかができる
ものすごーく大雑把なくくり
でもビデオゲームとして実装する上で最低限必要な嗜好的要素を入れると
ほぼ必ず分類されてしまうであろうカテゴライズ
どういうゲームが一番作りたいか
プレイヤーとしての僕は、腕のいい指揮者かつ演奏者がいるなら
やっぱりいいオーケストラが聴きたい
けど作者としては信仰上の理由で指揮棒を振るという行為は許されてない
かといって、毎回いくつも一人で楽器を弾くのは大変だ
ゲームというのは、ついジャンルの思い込みで無駄が多くなる
だから前述のようなより原始的なくくりから見ないと
不必要なものが分からない
つい妙な間の為にいらないシステムや手順を加えてしまう
やりたい事だけしかやらないというのは場合によっては最適解に近い
代償の問題もある
面白ければいいかといえば、忘れ去られるゲームというのも寂しい
そういう中で感性を加えていったりもする
思想や価値観をプレイヤーに刷り込むといった形式をとるゲームもある
僕は何を欲するか
それはそのまま加えるべき要素の選択に直結する
意味のある創作を求めてはいかんのか
いや、いかんといってるのは僕自身の心情だ
邪気眼14つ目にて空なる真理を得ているのだからして
正す理などないのだから訴える理などもない
あるとすれば理じゃなく形か
しかしそれは虚ろだ
そこにきて邪気眼17つ目"創作"となるわけで、
じゃあこいつはそのへんの押し売り感性とどう違うのよって話
純度が違う、としかいいようがないわな
そもそも一般的な感性は最初に創作されたものの影響が受け継がれて
劣化した二次感性として残存してるわけだから
根源的には創作だろうが感性だろうが出所は似たようなものになる
それらを整理すると
感性としての思想の動機は通過したので不可
感性を超えた創作はありだが、そもそも創作は
超えた感性の大元、つまり創作もまた不可
この袋小路を打開するには空の真理を解き直さねばならない
つまり本当に感性は空か
あらゆる真理は空である
これはつまり真理とは知ろうが知らまいが結論が変わらぬことを指す
知ることで結論が変わる真理は真理ではない
つまるところ本当に価値ある知見というのは変化を強要しない
しかし作品を発信するという行為には何らかの影響意欲がないと成立しない
この矛盾
本質的に何が発信するに足りうるものかと問うその前段階で
そもそも発信行為すら是認されていないこの矛盾
創作に意味を求めてはいけないのか
僕もいい大人だ
思想と行為を一致させたい
数々の先人はその到達地点として理想の伝達を見てきたが
僕にはその道は通れないのだろうか
創作に意味を求められるべきか
形か
形を余人が都合のいい翻訳をして柵としてしまったと読むべきか
形はいうなれば畑を増やす開墾のような行為
柵は畑を区分けし計画的に収穫する行為のようなもの
人が生きるに畑はいるが必ずしも柵はなくてもいい
柵を作るのを訴える意味などはないということか?
わからん
難しい問題だ
創っておいて勝手に使うなとは都合のいい言い草か
真実と真理を勘違いするなってことか?
真実は示していい
だが真実を真理として伝えようとすると無理が出る
そういうことか
だが真実を示してなんになる
つまりはそこだ
ただ誤解を招き、強要と軋轢を生む土台を提供するだけか?
刺激の強い真実は多くの人間の目には真理として映る
何がしたいのか
それこそむしろ逆なのかもしれない
僕は何もしたくないのだ
できるかぎり影響を0に近づけつつ、好きなものをなるたけ制限なく作りたい
なら公開しなきゃいいでしょう
いや、褒められたいし、楽しんでもらいたいし
ああ
ということは
創作に意味はなくていいんだ
なるほど
で重要になってくるのは、好きなものってとこだよな
創作意欲の赴くままに、か?
いや、より強大な創作意欲の在り処を求めて、ってところか
究極の創作意欲に到達するにはどうすればいい
究極の創作意欲
究極の創作意欲だ
決まったぞ、これから探すのは究極の創作意欲の在り処だ
矩形のピクチャを用意して、端を凸状に見えるよう乗算ピクチャをかける
押した時は凹影をつけて共用すれば、
手軽にボタンタイプのインターフェイスできるか?
久しぶりに迷いを感じるな
大元からのゲームの方向性としては、
瞬間的に反応が返ってくる弄りゲー
反応に時間差がある戦略ゲー
時々の戦術で勝利を目指す戦術ゲー なんかがあって、
それぞれにストーリーやらシンボル化なんかができる
ものすごーく大雑把なくくり
でもビデオゲームとして実装する上で最低限必要な嗜好的要素を入れると
ほぼ必ず分類されてしまうであろうカテゴライズ
どういうゲームが一番作りたいか
プレイヤーとしての僕は、腕のいい指揮者かつ演奏者がいるなら
やっぱりいいオーケストラが聴きたい
けど作者としては信仰上の理由で指揮棒を振るという行為は許されてない
かといって、毎回いくつも一人で楽器を弾くのは大変だ
ゲームというのは、ついジャンルの思い込みで無駄が多くなる
だから前述のようなより原始的なくくりから見ないと
不必要なものが分からない
つい妙な間の為にいらないシステムや手順を加えてしまう
やりたい事だけしかやらないというのは場合によっては最適解に近い
代償の問題もある
面白ければいいかといえば、忘れ去られるゲームというのも寂しい
そういう中で感性を加えていったりもする
思想や価値観をプレイヤーに刷り込むといった形式をとるゲームもある
僕は何を欲するか
それはそのまま加えるべき要素の選択に直結する
意味のある創作を求めてはいかんのか
いや、いかんといってるのは僕自身の心情だ
邪気眼14つ目にて空なる真理を得ているのだからして
正す理などないのだから訴える理などもない
あるとすれば理じゃなく形か
しかしそれは虚ろだ
そこにきて邪気眼17つ目"創作"となるわけで、
じゃあこいつはそのへんの押し売り感性とどう違うのよって話
純度が違う、としかいいようがないわな
そもそも一般的な感性は最初に創作されたものの影響が受け継がれて
劣化した二次感性として残存してるわけだから
根源的には創作だろうが感性だろうが出所は似たようなものになる
それらを整理すると
感性としての思想の動機は通過したので不可
感性を超えた創作はありだが、そもそも創作は
超えた感性の大元、つまり創作もまた不可
この袋小路を打開するには空の真理を解き直さねばならない
つまり本当に感性は空か
あらゆる真理は空である
これはつまり真理とは知ろうが知らまいが結論が変わらぬことを指す
知ることで結論が変わる真理は真理ではない
つまるところ本当に価値ある知見というのは変化を強要しない
しかし作品を発信するという行為には何らかの影響意欲がないと成立しない
この矛盾
本質的に何が発信するに足りうるものかと問うその前段階で
そもそも発信行為すら是認されていないこの矛盾
創作に意味を求めてはいけないのか
僕もいい大人だ
思想と行為を一致させたい
数々の先人はその到達地点として理想の伝達を見てきたが
僕にはその道は通れないのだろうか
創作に意味を求められるべきか
形か
形を余人が都合のいい翻訳をして柵としてしまったと読むべきか
形はいうなれば畑を増やす開墾のような行為
柵は畑を区分けし計画的に収穫する行為のようなもの
人が生きるに畑はいるが必ずしも柵はなくてもいい
柵を作るのを訴える意味などはないということか?
わからん
難しい問題だ
創っておいて勝手に使うなとは都合のいい言い草か
真実と真理を勘違いするなってことか?
真実は示していい
だが真実を真理として伝えようとすると無理が出る
そういうことか
だが真実を示してなんになる
つまりはそこだ
ただ誤解を招き、強要と軋轢を生む土台を提供するだけか?
刺激の強い真実は多くの人間の目には真理として映る
何がしたいのか
それこそむしろ逆なのかもしれない
僕は何もしたくないのだ
できるかぎり影響を0に近づけつつ、好きなものをなるたけ制限なく作りたい
なら公開しなきゃいいでしょう
いや、褒められたいし、楽しんでもらいたいし
ああ
ということは
創作に意味はなくていいんだ
なるほど
で重要になってくるのは、好きなものってとこだよな
創作意欲の赴くままに、か?
いや、より強大な創作意欲の在り処を求めて、ってところか
究極の創作意欲に到達するにはどうすればいい
究極の創作意欲
究極の創作意欲だ
決まったぞ、これから探すのは究極の創作意欲の在り処だ
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