おおお市内にアニメイトあったのか東方なかった
こないだふと気づいて、あんまりよくない見方なんだろうけど、
東方は一つの企業として機能してるんだと思う
分野はどうあれ企業というのは少数が有する広義の創造力を糧に
その他多数の利益を養っているわけで、
つまり個人を超えた余剰創造力に個人以上が乗っかってるとも見れる
こういう解釈をした場合、完全に東方は企業として機能してる
二次のそれは株式会社東方社員のそれに近い
というわけで今年の夏は地星Wを三段攻略する
うわーこんちきしょー!
個人作品はどこまでいったら大衆娯楽になってしまうんだろう?
ということは、まあよく考えたかもしれない
落書きはどうなったら絵になる?
どこから枠ができるか、ってそんなことをたまに考える
漫画の歴史なんか知らない(調べたことはあった気がするが
ただ現在は十分な認知度を得ていると思うし、
その過程には大衆化があったのだろうと思う
大衆化というのは認知度を十全に広げる為に必要なことで、
それには多大な才能が必要だ
一定以上の才能を集約し、広報し、
漫画とは、この一定以上の面白い物だけを、漫画と呼びますよ、と
大衆に認知させる
そうすることで大衆は安心して漫画を購入できる
しかし代わりに、今まで漫画であったはずの一定以下の漫画は
漫画ではないと大衆から黙殺される
いや、おそらく描いた本人ですら漫画だと思わなくなるんだろう
それが分野の大衆化というものなのだと思う
同人ゲームは大衆化するだろうか?あるいはしたか?
絶対的な才能の有無という公平の元で、未満の作品は排他される
でもそれは純粋に購買促進という必要性が求める要求だ
逆に購買促進する為には大衆化は必要でもある
だがこの理屈がどうしても何か引っかかる
何が違うのか?何かが違うはずだが、おぼろげでわからない
そうだ、奇妙な矛盾点がある
僕はせいぜい東方くらいしか同人ゲーは買わない
それは嗜好+出来がいいからだ
だから買ってでもやる
大衆化が単に買いたいと思うほど出来のいいものばかりに
絞られるだけなら嫌がる理由がない
なのに僕は嫌がっているような書き方をしているように見える
なぜだ?
つまり単に出来のいいゲームが売られることと、
大衆化で出来のいいゲームが多く売られることに
それ以外に何か違いがあると感じている
そしてそれは良くないことだと
プレイヤー側の意識の問題だろうか
いいものがあったら買うという心理から、
あるものの中からどれを買おうかという心理への変化
だがこれがなぜ悪いことなんだ?
何となくだが、
後者は製品が「私は面白いですよ」と言っているんだ
前者は「言っていない」
大衆化は面白いことが前提になる
なぜならそれは、大衆に向けて、その分野が大々的に広報したことだからだ
しかし大衆化していなければ、その声明は大衆に届いていない
大衆は呼ばれずに来た、自発的な客ということになる
大衆化の前後では、そのプレイヤー意識が変化してしまう
僕が引っかかっているのは恐らくここなんだろう
先に面白いと言うことなんてできやしない
前例のあるものだけで作れば、そんな見切り発車もできるんだろうが、
それをする気がないなら、大衆化された大衆は不安要素でしかない
実際どうかはともかく、先に面白さを保障できるような
「作り方」はできないだろう
販売上の非効率は当然てことだろうな
仮に出来だけで最終的なのべ売り上げが変わらないとするなら、
つまり大衆化とは、混じった出来の悪い製品を捌く手法なわけだが、
人の体力には限界がある 出来を悪くできる余力があるのは重要だ
が、なければないでそれまでって気もしないでもない
それこそその余力でその他多数を養うかって話なら、
そんな必要は幸い、いらないわけだ
まあそう考えてみればそれまでのものだよな
いやマーケティング的にフォロワーまでを
ってまあ馬鹿らしい話だ
あまりにも馬鹿馬鹿しい
ふと思うんだよ
天才は無理せず作れるから天才なんじゃないかと
いやそれ以前に、本当に無理なんてできるのかとね
生物ってのは生きるか死ぬかだ
その長い進化の中で、無理をするかしないかなんていう
致命的な遊びを残すだろうか?
そりゃペース配分としての余地はあるだろうが、
それらを含めて、常に全開である調整がされているはずだろうと
最近たまに思う
そんな生物として、生死にかかわる自由度を
表層意識に過ぎない人格に与えるだろうか
進化はそんなに甘くはないと思う
つまり無理をするなんてのは幻想だ
それをするには人類1千万年の、
下手をすれば38億年の進化の試行錯誤を超えなければならない
不可能ではないが絶対に不可能だろう
こないだふと気づいて、あんまりよくない見方なんだろうけど、
東方は一つの企業として機能してるんだと思う
分野はどうあれ企業というのは少数が有する広義の創造力を糧に
その他多数の利益を養っているわけで、
つまり個人を超えた余剰創造力に個人以上が乗っかってるとも見れる
こういう解釈をした場合、完全に東方は企業として機能してる
二次のそれは株式会社東方社員のそれに近い
というわけで今年の夏は地星Wを三段攻略する
うわーこんちきしょー!
個人作品はどこまでいったら大衆娯楽になってしまうんだろう?
ということは、まあよく考えたかもしれない
落書きはどうなったら絵になる?
どこから枠ができるか、ってそんなことをたまに考える
漫画の歴史なんか知らない(調べたことはあった気がするが
ただ現在は十分な認知度を得ていると思うし、
その過程には大衆化があったのだろうと思う
大衆化というのは認知度を十全に広げる為に必要なことで、
それには多大な才能が必要だ
一定以上の才能を集約し、広報し、
漫画とは、この一定以上の面白い物だけを、漫画と呼びますよ、と
大衆に認知させる
そうすることで大衆は安心して漫画を購入できる
しかし代わりに、今まで漫画であったはずの一定以下の漫画は
漫画ではないと大衆から黙殺される
いや、おそらく描いた本人ですら漫画だと思わなくなるんだろう
それが分野の大衆化というものなのだと思う
同人ゲームは大衆化するだろうか?あるいはしたか?
絶対的な才能の有無という公平の元で、未満の作品は排他される
でもそれは純粋に購買促進という必要性が求める要求だ
逆に購買促進する為には大衆化は必要でもある
だがこの理屈がどうしても何か引っかかる
何が違うのか?何かが違うはずだが、おぼろげでわからない
そうだ、奇妙な矛盾点がある
僕はせいぜい東方くらいしか同人ゲーは買わない
それは嗜好+出来がいいからだ
だから買ってでもやる
大衆化が単に買いたいと思うほど出来のいいものばかりに
絞られるだけなら嫌がる理由がない
なのに僕は嫌がっているような書き方をしているように見える
なぜだ?
つまり単に出来のいいゲームが売られることと、
大衆化で出来のいいゲームが多く売られることに
それ以外に何か違いがあると感じている
そしてそれは良くないことだと
プレイヤー側の意識の問題だろうか
いいものがあったら買うという心理から、
あるものの中からどれを買おうかという心理への変化
だがこれがなぜ悪いことなんだ?
何となくだが、
後者は製品が「私は面白いですよ」と言っているんだ
前者は「言っていない」
大衆化は面白いことが前提になる
なぜならそれは、大衆に向けて、その分野が大々的に広報したことだからだ
しかし大衆化していなければ、その声明は大衆に届いていない
大衆は呼ばれずに来た、自発的な客ということになる
大衆化の前後では、そのプレイヤー意識が変化してしまう
僕が引っかかっているのは恐らくここなんだろう
先に面白いと言うことなんてできやしない
前例のあるものだけで作れば、そんな見切り発車もできるんだろうが、
それをする気がないなら、大衆化された大衆は不安要素でしかない
実際どうかはともかく、先に面白さを保障できるような
「作り方」はできないだろう
販売上の非効率は当然てことだろうな
仮に出来だけで最終的なのべ売り上げが変わらないとするなら、
つまり大衆化とは、混じった出来の悪い製品を捌く手法なわけだが、
人の体力には限界がある 出来を悪くできる余力があるのは重要だ
が、なければないでそれまでって気もしないでもない
それこそその余力でその他多数を養うかって話なら、
そんな必要は幸い、いらないわけだ
まあそう考えてみればそれまでのものだよな
いやマーケティング的にフォロワーまでを
ってまあ馬鹿らしい話だ
あまりにも馬鹿馬鹿しい
ふと思うんだよ
天才は無理せず作れるから天才なんじゃないかと
いやそれ以前に、本当に無理なんてできるのかとね
生物ってのは生きるか死ぬかだ
その長い進化の中で、無理をするかしないかなんていう
致命的な遊びを残すだろうか?
そりゃペース配分としての余地はあるだろうが、
それらを含めて、常に全開である調整がされているはずだろうと
最近たまに思う
そんな生物として、生死にかかわる自由度を
表層意識に過ぎない人格に与えるだろうか
進化はそんなに甘くはないと思う
つまり無理をするなんてのは幻想だ
それをするには人類1千万年の、
下手をすれば38億年の進化の試行錯誤を超えなければならない
不可能ではないが絶対に不可能だろう
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