ゲーム思いつかねーー!
ゲーム思いつかねーよーー!
うわあああぼべらぼべらぶばばばべらばあ
感性か・・・
電子海ぱったりやめちゃったな・・・
炭鉱もやってない
斬新なゲームを作ったとしても、気づかれなきゃ斬新でもなんでもない
それは感性だ
面白いゲームを作れば誰でも気づく
それは理性だ
感性の持つ意味は脆い
感性は主観であり、具体物を経由して、注意深く感性を読み取ろうとする
人間にだけ伝わる
というのは優しい幻想で、それだけの感受性は期待できない
ましてそれだけの具体化すら期待できない
感性は作品における搾りカスのようになりつつある
面白くさせる技術、感動させる技術、惹きつける技術
受け手の反応を理想に近づける技術はテクノロジーであって一意のものだ
一意のものなんだよ
そして一意のものは感性とは呼べない
これが何を意味するかわかるだろうか
わざわざ感性を表現する必要がなくなりつつあるってことだ
多大な労力を使って伝わるかどうかもわからない、
受け取ろうとしなければ伝わらないものを作るより、
確実に要点も含めて伝える技術がある
そんな場合、感性はもはや無意味だ
知らず知らずそういう生活をしていて、ふと気づいた
ゲームをしても、音楽を聴いても、ブログを見ても、
前ほど心が揺らがないことに
感性とは何かと最近よく考える
間違いなく感性は生活を豊かにする
しかしその感性の豊かさが、作り手となった時牙をむく
感性が豊かであればあるほど、他の人が何も受け取っていないことに
気づかされることになる
感性とは何か?
感性が心理、情動、論理に含まれるものなら僕にも汲み取れただろう
しかし実際には、心理や情動や論理が感性に含まれるものだ
感性には果てがない
と同時に間接的に共有できないものであり、無意味なものだ
少なくとも高尚と呼ばれるレベルにおいてはそうだ
一体誰が芸術など理解できるだろう
もしできるとすれば、それはそれ以上の芸術家だけだ
感性が追いついていないのに、どうやってその芸術を評価できるというのか
それが錯覚感性だ
錯覚感性を作り手が肯定することは、嘘をつくことに等しいと僕は思うよ
かといって感性の正誤なんて照合できるものでもない
僕はふとそこに壁があることに気づいたよ
絵を見て音楽を聴いて、ふとそこにある感性を読み取れそうな感覚を受ける
どんな風に作り始め、どんな目的で、特別な思いがあったのか、
それともさして思い入れはなかったのか、自分ではどんな感想を持っていたのか、
全てシミュレートして、感性というものを引き出そうとする
でも駄目だ
これこそ僕の感性だが、そこには壁があるんだ
しかもその壁は僕自身が作っている壁だ
理由はわからないがそう感じる
なにより受け手は感性の正誤に無関心だ
それは当然でもあり、受け手が受けるのは自分がよりよい豊かさを得る為だからだ
何事も考え方次第で楽しいものになる
だが仮にもしもその何事が、
作り手が心血注いで苦しさを表現したものだったとしたらどうする?
受け手はさも善人そうにそういった無関心を披露してくれる
でもそれは注がれた心血のほどに残酷だと、僕はそう思うのですよ
ゲーム思いつかねーよーー!
うわあああぼべらぼべらぶばばばべらばあ
感性か・・・
電子海ぱったりやめちゃったな・・・
炭鉱もやってない
斬新なゲームを作ったとしても、気づかれなきゃ斬新でもなんでもない
それは感性だ
面白いゲームを作れば誰でも気づく
それは理性だ
感性の持つ意味は脆い
感性は主観であり、具体物を経由して、注意深く感性を読み取ろうとする
人間にだけ伝わる
というのは優しい幻想で、それだけの感受性は期待できない
ましてそれだけの具体化すら期待できない
感性は作品における搾りカスのようになりつつある
面白くさせる技術、感動させる技術、惹きつける技術
受け手の反応を理想に近づける技術はテクノロジーであって一意のものだ
一意のものなんだよ
そして一意のものは感性とは呼べない
これが何を意味するかわかるだろうか
わざわざ感性を表現する必要がなくなりつつあるってことだ
多大な労力を使って伝わるかどうかもわからない、
受け取ろうとしなければ伝わらないものを作るより、
確実に要点も含めて伝える技術がある
そんな場合、感性はもはや無意味だ
知らず知らずそういう生活をしていて、ふと気づいた
ゲームをしても、音楽を聴いても、ブログを見ても、
前ほど心が揺らがないことに
感性とは何かと最近よく考える
間違いなく感性は生活を豊かにする
しかしその感性の豊かさが、作り手となった時牙をむく
感性が豊かであればあるほど、他の人が何も受け取っていないことに
気づかされることになる
感性とは何か?
感性が心理、情動、論理に含まれるものなら僕にも汲み取れただろう
しかし実際には、心理や情動や論理が感性に含まれるものだ
感性には果てがない
と同時に間接的に共有できないものであり、無意味なものだ
少なくとも高尚と呼ばれるレベルにおいてはそうだ
一体誰が芸術など理解できるだろう
もしできるとすれば、それはそれ以上の芸術家だけだ
感性が追いついていないのに、どうやってその芸術を評価できるというのか
それが錯覚感性だ
錯覚感性を作り手が肯定することは、嘘をつくことに等しいと僕は思うよ
かといって感性の正誤なんて照合できるものでもない
僕はふとそこに壁があることに気づいたよ
絵を見て音楽を聴いて、ふとそこにある感性を読み取れそうな感覚を受ける
どんな風に作り始め、どんな目的で、特別な思いがあったのか、
それともさして思い入れはなかったのか、自分ではどんな感想を持っていたのか、
全てシミュレートして、感性というものを引き出そうとする
でも駄目だ
これこそ僕の感性だが、そこには壁があるんだ
しかもその壁は僕自身が作っている壁だ
理由はわからないがそう感じる
なにより受け手は感性の正誤に無関心だ
それは当然でもあり、受け手が受けるのは自分がよりよい豊かさを得る為だからだ
何事も考え方次第で楽しいものになる
だが仮にもしもその何事が、
作り手が心血注いで苦しさを表現したものだったとしたらどうする?
受け手はさも善人そうにそういった無関心を披露してくれる
でもそれは注がれた心血のほどに残酷だと、僕はそう思うのですよ
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