悲しいかな力のある者が驕るのは確率ではなく必然。
少しの才能しか持たない者が最強になるのもまた、確率ではなく必然なんだよ。
才能は少しあればいいんじゃない。少しでないと駄目なんだ。

力の強い者に鍛えるなと言う。
賢い者に学ぶなと言う。
王様に他国を攻めるなと言う。
どれも道に反すると思わないか?
それを丸ごとひっくるめて正すには人をやめるしかないのさ。
価値観という言葉はそれほどに超絶した世界を含んでいる。

こ、こいつ何者だ・・・?
こんな人が生で生きてるなんて嬉しいなー

ゆるーく、ゆるーく心は軽ーくね。
これは信条じゃない。だから心を硬くする事も許される。
これは在り方、立ち方の一種だ。
攻める為の道具でも、守りの道具でも、旗でもない。
何もしない時どういうポーズで立っているかの形の一つ。
ゆるく柔らかい立ち方で立つ、これが僕流。

こんなに安らかな気分になるのは最近ではもう二年に一度あるかないかだ。
大事にしよう。

図抜けた才能だなぁ。
なんだかんだで才能を見るのはやっぱり楽しいことだよ。
それにしても創作の才能分野はいくつもあるが、
この系統でここまでの才は見たことがないかもしれないな。
たとえ熟練の一流でもこの系統でこの才に匹敵できそうな人はすぐに思い浮かばない。

少し困ったことに僕には性欠がない。
人や恐らく他の動物も、元々精神には異性の半分の欠落がある。
ゆえにその欠けた部分を埋める為に異性を求めるのだ。
それがアニマやアニムスと呼ばれるもので
創作上でもたびたび現れる異性の人格なのだが、
僕は少し前にその性欠を精神的な工夫で埋めてしまった。
半性の状態はとても不安定で簡単に闇に飲まれるので、
いくつもの人外の価値観を開きつつ正気を保つ為には仕方なかったのだけど、
その為に僕の作るキャラクターからも性欠がなくなってしまう事は誤算だった。

最近やっと録画しておいた爆問学問の哲学編を見たんだけど、
以来久しぶりに意識のありかが気になってしまっている。
最も簡潔な答えはこうだ。
それを自分自身だと感じていると思う仕組みが物理的にそこに存在しているから。
こういう論法を使えば、なぜそう感じるのかは、
そう感じる仕組みがあるとだけ言えば、そうでないはずはなくなってしまう。
そんなことを考えながら僕の考え方は一転した。
もしかしたらそもそも意識は全ての物質にあって、
高度な現象としてそれが仕組みを持って見えるか見えないかだけなんじゃないか、
と思った。それは飛躍しすぎなんだが、
改めて考えると、そういう仕組みにするとそういう作用になる、
というこの宇宙の基本観念そのものが、意識的というか、
神秘的な根源的土台なのではないかと思えてくる。
作用を可能とする土台そのものが個であり、物理法則の固着がそもそもの
意識、つまり個々の完全な断絶性と整合性を保障する条件そのものなのでは。
少し難しいけど。

所詮形のない精神的な小細工だから、男女関係を上手く描いた漫画なんかを読むと
結構簡単に性欠は開いてしまう。
今まではそうと気づくとなるべくすぐ閉めようとしてたけど、
そこまでしなくてもある程度この感覚を楽しむのは悪くないのかもしれない。
そういう余裕ができてきたのはいいことだと思うのだが、
ある意味さらに非人間性が増したようでもあって何か複雑。

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