すしめしまずいよ。(いやまずくはない
2009年6月14日 ゲーム灰で瓶詰めされたゴミような私ですが、
最近一人お気に入りの絵描きさんを見つけて喜んでいました。
そしてその絵描きさんが好きな絵描きさんが、
またしても僕は好きになりました。
なぜならその二人目の絵描きさんの文章を読んだ時、
何かぐわっとした気持ちが湧いたからです。
この気持ちが湧くとプレッシャーや嫌悪感が感じなくなる。
もうずっと感じていなかった気持ちでした。
僕はその気持ちの源が何であるのか分析しようと思った。
そして心底うんざりしたのだ。
僕は二人目の彼女の拍手ボタンを押す事にした。
あろうことか、拍手絵がないではないか!
僕は八つ当たりで10回押した。
ふん、最近じゃ珍しくもない絵柄じゃないか。
駄目だね。
予言してやるよ、この人は必ずいずれ絵が嫌いになる。
そういえば一人目もそんなに好きじゃないような気がしてきたぞ。
よくある絵柄じゃないか。ふん、だまされるところだったな。
-
たまに人の絵をだめだと言っている人がいるが、
あれは殺されてもおかしくない。
とくに相手に届かないと思って言っている人間だ。
あれは注意してやらねばな。死ぬよ。
いい例えを思いついたな。絵をけなされるというのは、
性器をけなされるのと全く同じようなものなのです。
まったく、けなす人というのは甘ちゃんですわ。
死ですよ、死。ぬるい、まったく。
なにもわかっちゃいないんだ。なにを蹴飛ばしているのかも。
それは竜のちんこですよ。まじ死ぬ。
ああ、人がいっぱいいる・・・
帰ろう・・・
こやつ、なんぞ絵描きのくせにこげなようさん企画参加しとるのか!
ぜんぜん部外者見ること考えてねえ。
だがそれがいい。ブツ切れの構成を理解しようとする作用が、
この僕のクソのような脳を少しだけ楽しませてくれる。
よくこんなわけのわからぬ絵に、わけのわからぬ感想を書けるものだ。
さっぱりわからない。
このよく分からぬ絵を描く連中は一体なんなのだ?
僕の脳トレ用にこの世に生まれてきたわけじゃあるまい。
視覚と聴覚どっちが優位感覚か思い出していた。
「明るい」は絵と音楽で共用されつつ視覚に本来の定義を持つから、
視覚の方が優位感覚だ。
けどもっと絵に親しんでいた頃、今は聞こえていない音楽のようなものが
聞こえていたような感覚があった気がする。
今と比較して、の話だ。今が聞こえなくなった。
いや実際に共感覚とかそんな直接的に何かがあったわけじゃない。
ただ、昔はもっと多くのチャンネルで絵を見ていた、気がする。
それが今は狭まって、だからつまらないんじゃないか?
若い人の絵に対する感覚を聞くと、それが思い出されてわくわくする。
とらえ方、というのは僕が思っているより遥かに未知のものなのかもしれない。
視覚、といってみても、一定のチャンネルの規格があるわけではなく、
もっと個人ですら、時期によって変化するような動的なものなのかもしれない。
視神経単位での映像の統合というのですら極めて狭い解釈で、
成長途中にある若者達はもっともっと絡まりあった感覚を持っているんじゃないか?
僕は脳細胞が減っただけなんじゃないか?
何のことを言っているのか非常に表現しづらい。
つまり感覚器レベルで動的ではないのかということが言いたい。
一般に感覚情報は、視覚なら映像、聴覚なら空気振動と、
なにか、あるものがあるものとして確かに伝えられているような言い方をするが、
そうじゃなく、同じ視覚でも、映像1、映像2、映像3という伝え方があって、
それは心の持ち方とかのもう少し手前の段階で起こっているんじゃないかと言いたい。
だめだ。定義し切れてないな。
それともやはり、心持ちの問題である可能性もある。
例えば様々な映像に対して、色々な連想が次々と浮かぶ脳にとっては、
浮かばない脳より、同じ絵を見ても遥かに豊かに感じられるだろう。
映像に対して深く味わう日常を過ごしていれば、そういった連想は強化されていく。
逆に離れていれば、どんどん同じ絵でもつまらなく見えていく。
つまらないのは自己責任というわけだ。
あっはっはこりゃ愉快!
んなわけがあるか!
つまらんものはつまらない!!
改めて考えてみると変な人間だな・・・
いや、というか若者自体を変に感じてきているのか。
なに考えてるんだ、この人たち。特に若い絵描き。
指くわえて頭傾げちゃう。純粋に不思議だ。興味が湧く。
なに考えてんだ?なんか楽しげに、人との繋がりに使ってもいるけど、
そんな変なコミュニケーションてあるか?ただ描いてるだけだぞ?
意思疎通するんでもない、ただめいめいに「描いてる」っていうだけで、
コミュニケーションできてる?なんで?この子らなんなの?
改めてみるとおっかしいなー
わかんないよなー。意味ないもんな。遊んでるだけなんだけど、
でもデリケートな感性と両立してもいるもんな。
なんなんだ?この感覚。なに考えてんだ?
考えてないのか?経験の総量が大人と根本的に違う。
あるものがない。ないとどうなってるのか、わからない。
もう僕にはわからないのか。
自分より経験の少ない自意識の構成の想像がつかない。
これはなぜかというと、自分のそういう頃の記憶を、
客観的に記憶として覚えておかなかったからだ。
知識としてもエピソード記憶としても残ってない。だから若者を理解できない。
困ったな。面白そうなのに。
わかるんだけどね。
この描こうとしてないどこかから来る絵。
描こうとしてる絵はわかるんだよ。
でも、いわゆる手癖絵。これどっから来るのかわからない。
いっちゃなんだけど、へたっぴの人の手癖絵もどこから来たかはわかる。
でも、なーんにも考えてないような、
絵の中に自我が融けちゃってるような人の手癖絵って、わからない。
いざどこから来たのか測ろうとすると、測れない。
僕はそういう絵は嫌いだ。意思的でないし、努力に左右されない絵だからだ。
多くのまじめな絵描きもそれを否定する。
でも実際のところ、それが何なのか誰にもわからなくて、
そして正直なところ、結構やっぱり好きなのだ。
どこから来てしまったのだろうか。
そう、確かに時期や文化圏を見ると、いくらかの類似性は見つけられる。
が、結局それは何なのかというところは、
それら全部ひっくるめて謎だ。彼らは何を描き、
何によってつながっているのか。なぜ描いているのか?
手が描くのだ。それだけだ。本当にそれだけなんだ。
ペンを持って紙の上に置いて寝ていると、絵を描いているんだ。
それが当たり前で、そんな人間同士が集まってコミュニケーションしている。
そういう現象なんだ。
創作行為にはまだ全く指摘されていない秘密の領域があるのだと思う。
アイデアとは別に、別のどこかから来た何かも
僕らは自分のアイデアのように使うが、それはたぶん、
アイデアとは根本的に異なるものなのだ。
そのアイデアと、出そうとして出すアイデアとの根本的隔たりを感じる。
そういう人は多いはずだ。もし自覚していなくても、
それは結果として現れているはずだ。
つまり明らかに、創意工夫によって出たアイデアと、
出所不明のアイデアが、どう見ても異質なのだ。
ここの所をあいまいにし続けているがために、
創作で苦しむ作者達が大量に発生してしまう。
これらは違うものだ。が、往々にして、
そうではないやり方によって、別の方のアイデアを出そうとして
発狂しそうなほど悩む事になってしまう。
違うかもしんない。
上の段落なしで。
思うんだが、論理的に不正でなくとも、
正しい誇張と視点と字面で表現されていない知識は、嘘と同じだな。
まあそれはいずれ別の時に。
あーあ、また長くなっちゃった。
すっごいブサイク。形悪い。
しっかし思うとやってる事おんなじだな。
この文も指が書いてるようなもんだ。
こんな喋り方や思考をする人格の「僕」なんて生身はどこにもない。
こんな文章は僕が生み出してるもんじゃない。
指が勝手に打ってるんだ。本当だよ。
証拠に、実際にこういう文を打って下さいって言われて、
パソコンの前に座らされたら打てないもの。
脳みその活動部位が全く違うんだよ。
これは指が打ってるんだ。
打って欲しい時は、僕じゃなくて、指に言ってよ。
でもこいつ、僕の言う事聞いてくれたためしがないんだよね。
二、三日前に、五割以上話題の合う友人が一人でも身近にいたなら、
どんなに日常が楽しかっただろうかと考えた。
確か僕は中学頃からネットをやり始めたが、
未だに生身の人間とネットの事について話した事がない。
その事について不満に思った事がなかった。
創作に関するものについて話したこともないし、
そういえば科学についての意見を話したこともない。
話題が合う、というのは友人の条件じゃなかった。
合う相手などどこにもいなかったのだから。
自分と他人の違いについて考えない日はないよね。
僕は優遇されている。それも相当に。
そしてこの優越感に毎日押し潰されそうになるのに耐えている。
思わない日はない。何をやってもそう見えてしまう。
僕より重度の人はどうやってこれに耐えているのだろう。
忘れたくても、忘れれば忘れるほど心が真っ直ぐになって、
さらに症状が重くなってしまう。
しまいにはブログに書いてしまうほど普通のことになってしまう。
例えば、違うものは違う、と言ってしまったら楽になるのか?
僕は未だかつて、この事について悩んでいる人というのを、
伝え読み聞く分にですら聞いたことがない。なぜだ!
どうしたらいいんだ。
なぜだー!
あんたらも思っているはずだ。
それにあんたらの周りの人も思っているはずだ。
何かが違うと。どうしたらいい?
精神の中身がわからないのか?こんなに透け透けなのに?
そうだろうね。精神の中を見れない人はさらに多いよ。
見えるならゆってくれよ。そんなに少ないはずはないんだ。
僕が哀れに見えるか。哀れだよ。
僕以上に脳に詳しい相手を想像できないんだ。
もうずっと想像できないんだよ。
僕はもうすぐ脳の設計図を手に入れる。
その時、他に誰も設計図を知る人間がいなかったとしたら、
僕は一体人間達に対してどのような感情を抱いたらいい。
誰が一体僕の友になりえるというんだ。
僕は哀れだ。
無駄だ
なにかおかしい
僕は優し過ぎた
狂うにはまだ早いよ
最近一人お気に入りの絵描きさんを見つけて喜んでいました。
そしてその絵描きさんが好きな絵描きさんが、
またしても僕は好きになりました。
なぜならその二人目の絵描きさんの文章を読んだ時、
何かぐわっとした気持ちが湧いたからです。
この気持ちが湧くとプレッシャーや嫌悪感が感じなくなる。
もうずっと感じていなかった気持ちでした。
僕はその気持ちの源が何であるのか分析しようと思った。
そして心底うんざりしたのだ。
僕は二人目の彼女の拍手ボタンを押す事にした。
あろうことか、拍手絵がないではないか!
僕は八つ当たりで10回押した。
ふん、最近じゃ珍しくもない絵柄じゃないか。
駄目だね。
予言してやるよ、この人は必ずいずれ絵が嫌いになる。
そういえば一人目もそんなに好きじゃないような気がしてきたぞ。
よくある絵柄じゃないか。ふん、だまされるところだったな。
-
たまに人の絵をだめだと言っている人がいるが、
あれは殺されてもおかしくない。
とくに相手に届かないと思って言っている人間だ。
あれは注意してやらねばな。死ぬよ。
いい例えを思いついたな。絵をけなされるというのは、
性器をけなされるのと全く同じようなものなのです。
まったく、けなす人というのは甘ちゃんですわ。
死ですよ、死。ぬるい、まったく。
なにもわかっちゃいないんだ。なにを蹴飛ばしているのかも。
それは竜のちんこですよ。まじ死ぬ。
ああ、人がいっぱいいる・・・
帰ろう・・・
こやつ、なんぞ絵描きのくせにこげなようさん企画参加しとるのか!
ぜんぜん部外者見ること考えてねえ。
だがそれがいい。ブツ切れの構成を理解しようとする作用が、
この僕のクソのような脳を少しだけ楽しませてくれる。
よくこんなわけのわからぬ絵に、わけのわからぬ感想を書けるものだ。
さっぱりわからない。
このよく分からぬ絵を描く連中は一体なんなのだ?
僕の脳トレ用にこの世に生まれてきたわけじゃあるまい。
視覚と聴覚どっちが優位感覚か思い出していた。
「明るい」は絵と音楽で共用されつつ視覚に本来の定義を持つから、
視覚の方が優位感覚だ。
けどもっと絵に親しんでいた頃、今は聞こえていない音楽のようなものが
聞こえていたような感覚があった気がする。
今と比較して、の話だ。今が聞こえなくなった。
いや実際に共感覚とかそんな直接的に何かがあったわけじゃない。
ただ、昔はもっと多くのチャンネルで絵を見ていた、気がする。
それが今は狭まって、だからつまらないんじゃないか?
若い人の絵に対する感覚を聞くと、それが思い出されてわくわくする。
とらえ方、というのは僕が思っているより遥かに未知のものなのかもしれない。
視覚、といってみても、一定のチャンネルの規格があるわけではなく、
もっと個人ですら、時期によって変化するような動的なものなのかもしれない。
視神経単位での映像の統合というのですら極めて狭い解釈で、
成長途中にある若者達はもっともっと絡まりあった感覚を持っているんじゃないか?
僕は脳細胞が減っただけなんじゃないか?
何のことを言っているのか非常に表現しづらい。
つまり感覚器レベルで動的ではないのかということが言いたい。
一般に感覚情報は、視覚なら映像、聴覚なら空気振動と、
なにか、あるものがあるものとして確かに伝えられているような言い方をするが、
そうじゃなく、同じ視覚でも、映像1、映像2、映像3という伝え方があって、
それは心の持ち方とかのもう少し手前の段階で起こっているんじゃないかと言いたい。
だめだ。定義し切れてないな。
それともやはり、心持ちの問題である可能性もある。
例えば様々な映像に対して、色々な連想が次々と浮かぶ脳にとっては、
浮かばない脳より、同じ絵を見ても遥かに豊かに感じられるだろう。
映像に対して深く味わう日常を過ごしていれば、そういった連想は強化されていく。
逆に離れていれば、どんどん同じ絵でもつまらなく見えていく。
つまらないのは自己責任というわけだ。
あっはっはこりゃ愉快!
んなわけがあるか!
つまらんものはつまらない!!
改めて考えてみると変な人間だな・・・
いや、というか若者自体を変に感じてきているのか。
なに考えてるんだ、この人たち。特に若い絵描き。
指くわえて頭傾げちゃう。純粋に不思議だ。興味が湧く。
なに考えてんだ?なんか楽しげに、人との繋がりに使ってもいるけど、
そんな変なコミュニケーションてあるか?ただ描いてるだけだぞ?
意思疎通するんでもない、ただめいめいに「描いてる」っていうだけで、
コミュニケーションできてる?なんで?この子らなんなの?
改めてみるとおっかしいなー
わかんないよなー。意味ないもんな。遊んでるだけなんだけど、
でもデリケートな感性と両立してもいるもんな。
なんなんだ?この感覚。なに考えてんだ?
考えてないのか?経験の総量が大人と根本的に違う。
あるものがない。ないとどうなってるのか、わからない。
もう僕にはわからないのか。
自分より経験の少ない自意識の構成の想像がつかない。
これはなぜかというと、自分のそういう頃の記憶を、
客観的に記憶として覚えておかなかったからだ。
知識としてもエピソード記憶としても残ってない。だから若者を理解できない。
困ったな。面白そうなのに。
わかるんだけどね。
この描こうとしてないどこかから来る絵。
描こうとしてる絵はわかるんだよ。
でも、いわゆる手癖絵。これどっから来るのかわからない。
いっちゃなんだけど、へたっぴの人の手癖絵もどこから来たかはわかる。
でも、なーんにも考えてないような、
絵の中に自我が融けちゃってるような人の手癖絵って、わからない。
いざどこから来たのか測ろうとすると、測れない。
僕はそういう絵は嫌いだ。意思的でないし、努力に左右されない絵だからだ。
多くのまじめな絵描きもそれを否定する。
でも実際のところ、それが何なのか誰にもわからなくて、
そして正直なところ、結構やっぱり好きなのだ。
どこから来てしまったのだろうか。
そう、確かに時期や文化圏を見ると、いくらかの類似性は見つけられる。
が、結局それは何なのかというところは、
それら全部ひっくるめて謎だ。彼らは何を描き、
何によってつながっているのか。なぜ描いているのか?
手が描くのだ。それだけだ。本当にそれだけなんだ。
ペンを持って紙の上に置いて寝ていると、絵を描いているんだ。
それが当たり前で、そんな人間同士が集まってコミュニケーションしている。
そういう現象なんだ。
創作行為にはまだ全く指摘されていない秘密の領域があるのだと思う。
アイデアとは別に、別のどこかから来た何かも
僕らは自分のアイデアのように使うが、それはたぶん、
アイデアとは根本的に異なるものなのだ。
そのアイデアと、出そうとして出すアイデアとの根本的隔たりを感じる。
そういう人は多いはずだ。もし自覚していなくても、
それは結果として現れているはずだ。
つまり明らかに、創意工夫によって出たアイデアと、
出所不明のアイデアが、どう見ても異質なのだ。
ここの所をあいまいにし続けているがために、
創作で苦しむ作者達が大量に発生してしまう。
これらは違うものだ。が、往々にして、
そうではないやり方によって、別の方のアイデアを出そうとして
発狂しそうなほど悩む事になってしまう。
違うかもしんない。
上の段落なしで。
思うんだが、論理的に不正でなくとも、
正しい誇張と視点と字面で表現されていない知識は、嘘と同じだな。
まあそれはいずれ別の時に。
あーあ、また長くなっちゃった。
すっごいブサイク。形悪い。
しっかし思うとやってる事おんなじだな。
この文も指が書いてるようなもんだ。
こんな喋り方や思考をする人格の「僕」なんて生身はどこにもない。
こんな文章は僕が生み出してるもんじゃない。
指が勝手に打ってるんだ。本当だよ。
証拠に、実際にこういう文を打って下さいって言われて、
パソコンの前に座らされたら打てないもの。
脳みその活動部位が全く違うんだよ。
これは指が打ってるんだ。
打って欲しい時は、僕じゃなくて、指に言ってよ。
でもこいつ、僕の言う事聞いてくれたためしがないんだよね。
二、三日前に、五割以上話題の合う友人が一人でも身近にいたなら、
どんなに日常が楽しかっただろうかと考えた。
確か僕は中学頃からネットをやり始めたが、
未だに生身の人間とネットの事について話した事がない。
その事について不満に思った事がなかった。
創作に関するものについて話したこともないし、
そういえば科学についての意見を話したこともない。
話題が合う、というのは友人の条件じゃなかった。
合う相手などどこにもいなかったのだから。
自分と他人の違いについて考えない日はないよね。
僕は優遇されている。それも相当に。
そしてこの優越感に毎日押し潰されそうになるのに耐えている。
思わない日はない。何をやってもそう見えてしまう。
僕より重度の人はどうやってこれに耐えているのだろう。
忘れたくても、忘れれば忘れるほど心が真っ直ぐになって、
さらに症状が重くなってしまう。
しまいにはブログに書いてしまうほど普通のことになってしまう。
例えば、違うものは違う、と言ってしまったら楽になるのか?
僕は未だかつて、この事について悩んでいる人というのを、
伝え読み聞く分にですら聞いたことがない。なぜだ!
どうしたらいいんだ。
なぜだー!
あんたらも思っているはずだ。
それにあんたらの周りの人も思っているはずだ。
何かが違うと。どうしたらいい?
精神の中身がわからないのか?こんなに透け透けなのに?
そうだろうね。精神の中を見れない人はさらに多いよ。
見えるならゆってくれよ。そんなに少ないはずはないんだ。
僕が哀れに見えるか。哀れだよ。
僕以上に脳に詳しい相手を想像できないんだ。
もうずっと想像できないんだよ。
僕はもうすぐ脳の設計図を手に入れる。
その時、他に誰も設計図を知る人間がいなかったとしたら、
僕は一体人間達に対してどのような感情を抱いたらいい。
誰が一体僕の友になりえるというんだ。
僕は哀れだ。
無駄だ
なにかおかしい
僕は優し過ぎた
狂うにはまだ早いよ
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