リンショカネーンを...
2009年6月10日 ゲームいざ改まって視覚心理学に興味があるかと聞かれると、
それほど興味を持つ必要はない事に気づく。
実際それらが絵作りやインターフェースのデザインについて
ヒントを与えてくれる事は、経験上、ほぼないと言ってもいい。
しかしながら、なぜか感覚的には、
集めなければならない知識のように強く感じるのだ。
心理学が昔から無自覚なままに僕を不安にさせてきた理由は、
それが実験中だけでなく、生涯に渡る全ての認識に影響を与えている点だ。
言い換えれば、未知のその法則(の様に見える生理現象)が潜在し続けている限り、
今のこの認識は常に自覚する事のできない錯覚に包まれているという事だ。
あらゆる心理的視覚は存在する全てのその法則の影響を常に受け、
全てに受けているのだ。それは朝も、夜も、友人の顔を見る時も、
地図を見る時も、テレビを見る時も、暗い部屋に入った時も、
つまりそれらの洗脳を解除するのに逆変換する必要があるから、
僕はそれを必要に感じるのだろう。
言い換えれば、面白いものを作るというのは、
多くの人がまだ覚めていない洗脳から先んじて覚め、
それを覚まさせるきっかけを与える事なのだと思う。
人工知能を想定する。
この人工知能は非自我洗脳状態にある。
彼をその洗脳から覚まさせるには、好奇心とやらを組み込む必要があるのである。
物事を分解する事を好む感情だ。いやわからない。
好奇心がなんたるかついて、僕の洗脳は解けていない。
未知のものを知ろうとする好奇心と、
原理を知りたいという探究心は別のものなのかもしれない。
なぜ人は原理を知りたいと思うのだろう。
人、中でも男性は法則を抽出し、それを抽象的なまま考える事を得意とする。
これはそのまま、性差によるゲームの受け取り方の違いに現れている。
しかしこの抽象化の志向は、ある時点で逆行し、
抽象化される未然のものこそが原理的であると見なすようになる。
一般的かどうかはわからないが、それが現在の僕の取っているスタンスである。
問題はその探究心が必ずしも、抽象化とイコールでないらしいという点だ。
探究心も何らかの脳生理作用で実現されているはずだが、
それは抽象化を好ませる事で実現しているのではないらしい。
もしそうであれば、僕は探究心の延長上として、
抽象化の逆行を志向できないはずだからだ。
そうなると、探究心とは何か、ということになる。
真実を好む心といえばそのままだが、
果たしてそれをどのような定義でもって実装しているかが問題なのだ。
言い換えれば、僕達はそれが真実であるか、何によって判断しているのであろう。
論理性の整合性によって判断しているといっていいだろう。
その過程で、多くの論理整合性をクリアした観念は、法則として抽象化されるのだ。
しかしさらに厳しく整合性を吟味し始めると、
あらゆる法則は論理性が破綻し、より具体的な観念へと探究心は向かう。
人はなぜ探究心を獲得したのだろう。
抽象化は人類にとって有用な能力だったが、この結論から考えるに、
論理性を獲得した事によって発生した副次的な能力だったんだろう。
探究心は論理能力を発達させるために施された、
論理が破綻しないものを好む促進回路の結果物だと考えるべきだ。
論理というものの実体は、脳による照合行為に他ならない。
外界のパターンを加工、組み合わせて、その照合を行う。
脳内で作られた概念なら(1と1、○と○など)論理性は保たれるが、
外界の実在物を忠実に観測する限り、あらゆる論理性は成り立たない。
僕が原初を神と同等に崇めたのはこの事によるのだろう。
もうわかっていると思うが、
この世界は何なのか、という問いに対しては、この世界はこの世界である、
と答えるのが最も正しい。
もう少し抽象化するのなら、いや、
先の答えは最悪の答えという事か。
世界を答えるには世界と同じ情報量を記述する必要がある。
それを世界という二文字の単語に抽象化することは、とんでもない抽象化率だ。
極端な抽象化は真実であるどころか、実用にすら達しない。
つまり馬鹿な答えという事だ。
この世界は何なのか?
いや違う。文字数の問題じゃないのか。
確かに僕は世界を抽象化したが、そのすぐ下には実物の世界を意識している。
僕が使う限りは、この答えがやはりベストだ。
この世界はこれだよ、これ、これなのさ、そして全てだ。
もっと探求したい。
しかしここからさらに進むには、世界が世界である、という真実に対して、
その中に論理的な破綻を見つけなくてはいけない。
それは不可能なのではないか?
だとすれば僕のこの人の脳みそでは、
これ以上思索を深めるのは不可能ということか。
思索は終わったのかもしれない。
いや、厳密には世界が何であるか後は調べるだけになっ・・・た、だけ?
おかしいな。これは好奇心の範疇じゃないか?
それに僕は、今何か、世界を世界以下の小さな表現で理解したいと思っていたぞ。
それは抽象化じゃないのか。やはり抽象化は
独立した志向として潜在しているのか?
論理性も、抽象化も、好奇心もあるってだけの話だ。
脳も臓器だ。血管や骨の様にただ機能を発揮するためだけに、
進化が大雑把に作ったものでしかない。
精神だけ綺麗に作られているなんてことはあるはずないよね。
脳も肝臓や筋肉の様に、ああいうものと同じ様に扱われて作られた器官なんだから。
報われないなぁ。
あとリンリンダンスが始まる前に終わりました。(お約束
バイオリズム乱れてるなぁ・・・
まあゲーム作った後はしょうがないんだけど。
それほど興味を持つ必要はない事に気づく。
実際それらが絵作りやインターフェースのデザインについて
ヒントを与えてくれる事は、経験上、ほぼないと言ってもいい。
しかしながら、なぜか感覚的には、
集めなければならない知識のように強く感じるのだ。
心理学が昔から無自覚なままに僕を不安にさせてきた理由は、
それが実験中だけでなく、生涯に渡る全ての認識に影響を与えている点だ。
言い換えれば、未知のその法則(の様に見える生理現象)が潜在し続けている限り、
今のこの認識は常に自覚する事のできない錯覚に包まれているという事だ。
あらゆる心理的視覚は存在する全てのその法則の影響を常に受け、
全てに受けているのだ。それは朝も、夜も、友人の顔を見る時も、
地図を見る時も、テレビを見る時も、暗い部屋に入った時も、
つまりそれらの洗脳を解除するのに逆変換する必要があるから、
僕はそれを必要に感じるのだろう。
言い換えれば、面白いものを作るというのは、
多くの人がまだ覚めていない洗脳から先んじて覚め、
それを覚まさせるきっかけを与える事なのだと思う。
人工知能を想定する。
この人工知能は非自我洗脳状態にある。
彼をその洗脳から覚まさせるには、好奇心とやらを組み込む必要があるのである。
物事を分解する事を好む感情だ。いやわからない。
好奇心がなんたるかついて、僕の洗脳は解けていない。
未知のものを知ろうとする好奇心と、
原理を知りたいという探究心は別のものなのかもしれない。
なぜ人は原理を知りたいと思うのだろう。
人、中でも男性は法則を抽出し、それを抽象的なまま考える事を得意とする。
これはそのまま、性差によるゲームの受け取り方の違いに現れている。
しかしこの抽象化の志向は、ある時点で逆行し、
抽象化される未然のものこそが原理的であると見なすようになる。
一般的かどうかはわからないが、それが現在の僕の取っているスタンスである。
問題はその探究心が必ずしも、抽象化とイコールでないらしいという点だ。
探究心も何らかの脳生理作用で実現されているはずだが、
それは抽象化を好ませる事で実現しているのではないらしい。
もしそうであれば、僕は探究心の延長上として、
抽象化の逆行を志向できないはずだからだ。
そうなると、探究心とは何か、ということになる。
真実を好む心といえばそのままだが、
果たしてそれをどのような定義でもって実装しているかが問題なのだ。
言い換えれば、僕達はそれが真実であるか、何によって判断しているのであろう。
論理性の整合性によって判断しているといっていいだろう。
その過程で、多くの論理整合性をクリアした観念は、法則として抽象化されるのだ。
しかしさらに厳しく整合性を吟味し始めると、
あらゆる法則は論理性が破綻し、より具体的な観念へと探究心は向かう。
人はなぜ探究心を獲得したのだろう。
抽象化は人類にとって有用な能力だったが、この結論から考えるに、
論理性を獲得した事によって発生した副次的な能力だったんだろう。
探究心は論理能力を発達させるために施された、
論理が破綻しないものを好む促進回路の結果物だと考えるべきだ。
論理というものの実体は、脳による照合行為に他ならない。
外界のパターンを加工、組み合わせて、その照合を行う。
脳内で作られた概念なら(1と1、○と○など)論理性は保たれるが、
外界の実在物を忠実に観測する限り、あらゆる論理性は成り立たない。
僕が原初を神と同等に崇めたのはこの事によるのだろう。
もうわかっていると思うが、
この世界は何なのか、という問いに対しては、この世界はこの世界である、
と答えるのが最も正しい。
もう少し抽象化するのなら、いや、
先の答えは最悪の答えという事か。
世界を答えるには世界と同じ情報量を記述する必要がある。
それを世界という二文字の単語に抽象化することは、とんでもない抽象化率だ。
極端な抽象化は真実であるどころか、実用にすら達しない。
つまり馬鹿な答えという事だ。
この世界は何なのか?
いや違う。文字数の問題じゃないのか。
確かに僕は世界を抽象化したが、そのすぐ下には実物の世界を意識している。
僕が使う限りは、この答えがやはりベストだ。
この世界はこれだよ、これ、これなのさ、そして全てだ。
もっと探求したい。
しかしここからさらに進むには、世界が世界である、という真実に対して、
その中に論理的な破綻を見つけなくてはいけない。
それは不可能なのではないか?
だとすれば僕のこの人の脳みそでは、
これ以上思索を深めるのは不可能ということか。
思索は終わったのかもしれない。
いや、厳密には世界が何であるか後は調べるだけになっ・・・た、だけ?
おかしいな。これは好奇心の範疇じゃないか?
それに僕は、今何か、世界を世界以下の小さな表現で理解したいと思っていたぞ。
それは抽象化じゃないのか。やはり抽象化は
独立した志向として潜在しているのか?
論理性も、抽象化も、好奇心もあるってだけの話だ。
脳も臓器だ。血管や骨の様にただ機能を発揮するためだけに、
進化が大雑把に作ったものでしかない。
精神だけ綺麗に作られているなんてことはあるはずないよね。
脳も肝臓や筋肉の様に、ああいうものと同じ様に扱われて作られた器官なんだから。
報われないなぁ。
あとリンリンダンスが始まる前に終わりました。(お約束
バイオリズム乱れてるなぁ・・・
まあゲーム作った後はしょうがないんだけど。
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