ハンデル

2009年4月12日 ゲーム
この気持ちは何と名付けることができますか。
友人はみないい会社に入って、
技術、業務、企業、日本各地、世界各国、
たくさんの興味深い経験や知識を得ているはずなのに、
給料の話しかしてくれない。
でも彼らは純粋だ。
まるで真理に殉じているのと同じ様に純粋なのだ。

やあ。
この世の全てを正しく理解するのに必要なものってなんだ?

あらゆる知識と知力が欠乏する僕の頭では、
内容を伴う一切の会話には入れず、
俗的で即興的な話に、他愛のない相づちを打つくらいしかできない。
真理に殉じるというのは奇麗事じゃない。
無力を指針にするというのは洒落にならないことだ。
洒落ではやれぬことなのよ。

なぜこんなに混乱するのか、というと、
僕は僕が存在しないつもりでやっているのに、
当たり前だが、周囲は僕が存在するつもりでやってくる、
からなんじゃないかと思う。
なぜ僕のことを考えるんだ?
それについてだけ、論理的な正しい結論が出せない。
僕のことを考えられると、僕ははぐらかすことだけしかできなくなる。

この気持ちは何と名付けることができるのですか。
この人は途方もない野望を抱いていそうだと目していた人が、
全くそんなことなく、終始、安定と保障を望んでいたと知る落胆を。
そんな数々の人が、次々とそうと知れていく数々の落胆を。

とてつもなく悲しい。
惨めさなのか、寂しさなのか、後ろめたさなのかは分からないが、
きっともう、洒落ではなくなってしまったんだろう。

僕の人生設計では、人生を楽しむのは高校の三年間だけのはずだった。
しかしそれが結局、今になっても尾を引く奇妙な影響をおよぼし続けている。

やあ。
この世の全てを正しく理解するためなら何だって投げ出したっていいよ。

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