数年前のことを思い出していた。
頭は使い過ぎると反動で同じだけ鈍くなってしまう。
今考えるともう少し正確なことがわかる。
疲労を起こす脳の部位は思考を司る前頭葉、
特に新しくシナプスを繋ぐ場合や、長期記憶との連結をすると異常に疲労する。
その程度は数時間どころか数十分で機能不全を起こすレベルで、
通常、人はその間に負担の少ない習慣的思考や、運動、視覚、聴覚部位に、
体の主導を任せたりして、疲労した部位の回復を行う。

うへーもうトカマク切られてたとは。

なんというぢゲー。

建築は見るもんじゃねえ。
感じるものだと思う。
はっきりいえば、見るものとしての建築に価値なんかない。
僕は駄目なやつだ。
まったく絵や映像で感動できない。
うすっぺらい。
多くのものはそのものが価値を放っているが、
絵や写真として切り取られたとき、果たしてそれそのものに、
映像としての美が価値あるものとして成立しているかどうか。
きっと美しいものはたくさんあるはずだが、僕は駄目だ。
まるで期待できない。つい完全とか究極を求めてしまう。
あらゆるアングル、光学現象、構図、物理現象、人間、動物、自然、
表現、高速写真、写実美、構造美、萌え、個性、テーマ、破壊、もう何も期待できない。
見飽きた。せめてあと一枚。
あと一枚奇跡のような絵図が見たい。

僕はウォーターハウスの絵が好きだ。
もしかしたら一番好きかもしれない。
けど僕がもしそういう絵を好きだといわれ、
描くことを期待され続けたとしたらすごくうんざりするだろう。
自分が嫌なことを他人に押し付けて何か得られるものか?
だとしたらこの好意は本当にあるべき芸術の愛で方といえるのか。

作品に対する無責任な愛慕というものを僕はずっと考えてきた。
それでもまだぜんぜんなんにもわからない。

正しい愛で方とはそれを越える作品を本気で作ろうとすることでのみ
実現できると思ってきた。
果たしてそれは正しかったのかどうなのか。

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