なぜだかとても純粋な気持ちになる。

よく考えればそれもそのはず。
僕がネットで目にする人たちはみんな、
純粋に、ひたむきに、地道に創作活動に取りかかっている。
これらを見て何とも感じないことがおかしかったのだ。
僕はどうかしていた。

いろんなものが溢れて純粋な気持ちを忘れる。
作るって事はすごいことなのに。
高いレベルのスキルを見過ぎて鈍感になってしまう。
僕は猫踏んじゃったすら弾けないというのに。
何にでもすごーい、すごーいっていうあの素人根性爆発の素朴さは、
結局それを無くしたら何一つ感動など得られないのだ。
何も作れない。専門家の心では何一つ積み上げられない。
無理をして心の水準を上げていく必要はない。
気持ちは分かるよ。
普段の感覚を高い基準に取っておけば、置いていかれずにすむ。
のんびりしていたらある時、ふととんでもなく置き去りにされていることに気づく。
創作を続けていればうんざりするほど経験させられることだ。
そして、心の水準を上げてガードする。
少しのものでは感動しないように心をガードする。
しかしそれは間違いだ。
今はそんな気がする。

体育は好きだった。
体育は勝っても許される気がした。
機械的に全力が強要されるものだから、
全力でやっても免罪されると思っていた。
同じ様に真理も好きになった。
真理はどこまでいっても明かされるべき当然でしかないからだ。
けどそう思っていたのは僕だけだったのかもしれない。
笑われるかもしれないが、僕にとっては全力とは
人を傷つける見せてはいけない忌むべきものだった。
勝つことは最悪だった。負けることは楽しかった。
全力は一人でやっていれば満たされた。

それもまた歪みの一つだった。
いつだって逃げてしまいたい。
それでも一度始めてしまったら僕は全力しか出せない。
だからそれでも負かしてくれる人は最高に大好きだった。
そんな人がいる限り僕は人生を楽しいものにできる。

それが歪みだというのだー!
ま、いいじゃない、ヒューマンだもの。

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