皆仲良く平和だねと大量に人が死ぬのと、
劣等人種は死んで当然ですと少量の人が死ぬのでは、
どちらが平和と呼べるだろうか?
1から考えてみよう。
人間は物を生み出す。
その余りを他人の物と交換する。
この交換レートは必要なものの量に応じて適正に変動し、
その限りでは余剰は生じない。
→「余剰を得るには」
○必要なものを減らす→(その分さらに高く売られる可能性がある)
○適正より高く物を売る
○別のところで高く売る→慣習レート
★慣習レート
変動等価ではなく、慣習によって
固定レートを信用してしまう人間由来の現象。
↓これによって導かれるのは
売るということは不当な価値交換をすること。
(例外として利益が0やマイナスになる、する、こともある)
買うことは本来より余分な対価を払うということ。
つまり、買う(損)ことは売る(得)ことでバランスがとれるという
仮定のもとに成立している。
☆バブル
変化量の慣習レートという考え方で説明できる。
多くの人間が「レートの変化量」を信じることで、
得することが約束になる。
しかし実質的に得するのは、バブル系に対して、
慣習で固定された他の相場であって、
その相場がバブル系に適正なレートへと変動すると
バブルは得でなくなり終わる。
○現在起こっていること
売る行為が占有されている。
需要は限りがあるので、生産効率が上がると
売る行為が全員行えなくなる。
○必要でないものを生産した場合
例えば、食料が不足した状態でゲームを作る。
すると、その分さらに食料が生産されないので、
食料は高くなる。食料が高いのでゲームは売れない。
○経済発展とは
つまり、一人当たりの必要総需要が増えること。
少ない労力で作れるようになると、以前より少ない売り手だけで
需要を満たすことができる。
その分対価を下げたり、再配分したりすると永続するが、――
○販売競争が起きるのは
需要より作る人間が多いため。
そのおかげで効率生産以外に、高付加価値化も成り立つ。
しかし、その前提は需要<生産であること。
等しくなった時、競争は止まる。
参入が自由である以上、仮想敵との競争は続くともいえる。
○差別化
量、質が満たされると、需要は差別化へ進む。
差別化もまた、人類の進歩には必要。
○日本
日本は文化の多様化のために、
経済的思考の割合が減り、
経済的最適化が鈍ったといえる。
経済的知恵を優先していないのだから、
経済的に後退していくのは当たり前。
○ポイント
そもそも誰に対しても同じ値で売ることがおかしい。
持っている財産に対し、相当量が払われなければ、
それは適正価格ではない。
しかし、その錯誤を埋めるために、
知恵によってより上手く売れるものを作り出す。
しかしそれが作れない人間、優れていない人間は、
占有された生産に加わるか、絶滅するしかない。
つまり、
( 効率化によって生まれた余剰人口 = 知恵のある人間の数 )
でないと、相場の硬さしだいで死者が出る。
これが準固定相場と経済発展志向の負の部分。
ようするにこれは進化に対する是非を問うことと一緒だ。
環境の変動に対して、適応個体は母種族全体に対してどう振舞うべきか。
変わること、とりわけ指向された条件に変わっていくことというのは、
古いものをより早く殺していくことと同義だ。
しかし面白みのない結論からいえば、その答えは恐らく中庸なのだろう。
淘汰が早過ぎ、母種族の総数が減りすぎると適応種も滅びかねない。
だが変化が遅過ぎれば種全体そのものが死んでしまう可能性もある。
少なくとも指向的な淘汰は避けられない。
全く現実と平和という理想が食い違ってるじゃないか。
だれだ最初に平和なんて概念を提唱した人間は。
平和、共栄、共に栄えること。
だがこの世界にあるものといえば、ひたすら淘汰だけじゃないか。
ひどく異質だ。誰が平和なんて考えた?
そんな概念、この世界のどんなモデルケースを見て思いつけるんだ。
平和じゃない。協力だ。
協力を維持するために、共に栄えていきましょうねという方便だ。
なぜなら将来争うと言ってしまっては、協力が維持できないからだ。
しかしその方便が必要になるのは、実際は将来争うことは目に見えているからだ。
つまり人間が平和という概念を必要としたのは、
賢くなり未来が予測できるようになってしまった人間を、
有用な協力という手段に留めておくための方便が必要だったからだ!
だから動物には平和という考えがない!
あああああああああ何ということだ神よ!!!!!!!!!!!
僕がかつて考えた理想は平和バブルだ。
実体のない平和を人間間で互いに信用し合うことで、
そこに何かがあることにできると思っていた。
しかしそれがバブルだとわかった以上、
気づいた時がバブルの終わる時だ。
平和という概念のバブルはもうすぐ終わる。
貨幣の歴史は浅い。金などあと千年もつかもわからない。
いずれ複雑な社会は消え、人は動物と同じようになるだろう。
その時人間は時間というものの真の力を身をもって知るのだ。
何てことだ・・・
劣等人種は死んで当然ですと少量の人が死ぬのでは、
どちらが平和と呼べるだろうか?
1から考えてみよう。
人間は物を生み出す。
その余りを他人の物と交換する。
この交換レートは必要なものの量に応じて適正に変動し、
その限りでは余剰は生じない。
→「余剰を得るには」
○必要なものを減らす→(その分さらに高く売られる可能性がある)
○適正より高く物を売る
○別のところで高く売る→慣習レート
★慣習レート
変動等価ではなく、慣習によって
固定レートを信用してしまう人間由来の現象。
↓これによって導かれるのは
売るということは不当な価値交換をすること。
(例外として利益が0やマイナスになる、する、こともある)
買うことは本来より余分な対価を払うということ。
つまり、買う(損)ことは売る(得)ことでバランスがとれるという
仮定のもとに成立している。
☆バブル
変化量の慣習レートという考え方で説明できる。
多くの人間が「レートの変化量」を信じることで、
得することが約束になる。
しかし実質的に得するのは、バブル系に対して、
慣習で固定された他の相場であって、
その相場がバブル系に適正なレートへと変動すると
バブルは得でなくなり終わる。
○現在起こっていること
売る行為が占有されている。
需要は限りがあるので、生産効率が上がると
売る行為が全員行えなくなる。
○必要でないものを生産した場合
例えば、食料が不足した状態でゲームを作る。
すると、その分さらに食料が生産されないので、
食料は高くなる。食料が高いのでゲームは売れない。
○経済発展とは
つまり、一人当たりの必要総需要が増えること。
少ない労力で作れるようになると、以前より少ない売り手だけで
需要を満たすことができる。
その分対価を下げたり、再配分したりすると永続するが、――
○販売競争が起きるのは
需要より作る人間が多いため。
そのおかげで効率生産以外に、高付加価値化も成り立つ。
しかし、その前提は需要<生産であること。
等しくなった時、競争は止まる。
参入が自由である以上、仮想敵との競争は続くともいえる。
○差別化
量、質が満たされると、需要は差別化へ進む。
差別化もまた、人類の進歩には必要。
○日本
日本は文化の多様化のために、
経済的思考の割合が減り、
経済的最適化が鈍ったといえる。
経済的知恵を優先していないのだから、
経済的に後退していくのは当たり前。
○ポイント
そもそも誰に対しても同じ値で売ることがおかしい。
持っている財産に対し、相当量が払われなければ、
それは適正価格ではない。
しかし、その錯誤を埋めるために、
知恵によってより上手く売れるものを作り出す。
しかしそれが作れない人間、優れていない人間は、
占有された生産に加わるか、絶滅するしかない。
つまり、
( 効率化によって生まれた余剰人口 = 知恵のある人間の数 )
でないと、相場の硬さしだいで死者が出る。
これが準固定相場と経済発展志向の負の部分。
ようするにこれは進化に対する是非を問うことと一緒だ。
環境の変動に対して、適応個体は母種族全体に対してどう振舞うべきか。
変わること、とりわけ指向された条件に変わっていくことというのは、
古いものをより早く殺していくことと同義だ。
しかし面白みのない結論からいえば、その答えは恐らく中庸なのだろう。
淘汰が早過ぎ、母種族の総数が減りすぎると適応種も滅びかねない。
だが変化が遅過ぎれば種全体そのものが死んでしまう可能性もある。
少なくとも指向的な淘汰は避けられない。
全く現実と平和という理想が食い違ってるじゃないか。
だれだ最初に平和なんて概念を提唱した人間は。
平和、共栄、共に栄えること。
だがこの世界にあるものといえば、ひたすら淘汰だけじゃないか。
ひどく異質だ。誰が平和なんて考えた?
そんな概念、この世界のどんなモデルケースを見て思いつけるんだ。
平和じゃない。協力だ。
協力を維持するために、共に栄えていきましょうねという方便だ。
なぜなら将来争うと言ってしまっては、協力が維持できないからだ。
しかしその方便が必要になるのは、実際は将来争うことは目に見えているからだ。
つまり人間が平和という概念を必要としたのは、
賢くなり未来が予測できるようになってしまった人間を、
有用な協力という手段に留めておくための方便が必要だったからだ!
だから動物には平和という考えがない!
あああああああああ何ということだ神よ!!!!!!!!!!!
僕がかつて考えた理想は平和バブルだ。
実体のない平和を人間間で互いに信用し合うことで、
そこに何かがあることにできると思っていた。
しかしそれがバブルだとわかった以上、
気づいた時がバブルの終わる時だ。
平和という概念のバブルはもうすぐ終わる。
貨幣の歴史は浅い。金などあと千年もつかもわからない。
いずれ複雑な社会は消え、人は動物と同じようになるだろう。
その時人間は時間というものの真の力を身をもって知るのだ。
何てことだ・・・
コメント
此度の記事は非常に感銘を受けました
僕は人間の男女比について疑問があります。血中phが影響するのだとすれば・・・などと、たまに考えます。いつでもいいのですがブー太さんの考えが聞きたい
でもちょっと恥ずかしいですね・・・
男女比は出産比のことでしょうか?
正直にいうとほとんど考えたことないんですが、
調べてみた限りでは一応定説があるみたいで、僕もそれなりに納得できるものでした。
ちょっと意訳?になるかもですが、男女を別々の生物だと考えると、
互いに繁栄する条件が互いの個体数に依存しているので、
進化上、出生数は均衡するというものらしいです。
増えると不利になって、減ると有利になるという。
さらに個人的につけ加えるなら、
その男女比均衡の縛りが、他の生物との競争より優先されるほど強力か、
大した枷にならないデメリットなのだろうと言うことができると思います。
血中phは分からなかったんですが、具体的な原因について考えると、
染色体が男(XY)と女(XX)から一つずつ取るから
子供がXY:XX=1:1になるといわれていますが、
逆にその遺伝形式が強固かあるいはメリットが高いために、
結果的に男女比が固定され、後から個体の能力がそれに最適化された可能性も
ないとは言い切れないような気がします。
うーん、こんなところでしょうか。
はい、出産時の男女比の事です
一般に人間の場合は男児の方が出生時の死亡率が高く、男尊女卑傾向のある地域などを除けば
世界的に見ても女性の割合が若干多いのが実状のようです
>進化上、出生数は均衡し増えると不利、減ると有利
男の子が欲しいと言ってても女の子ばかりの家族もいたりしますので、どうやって全体的バランスを取ってるんだか偶然と必然・・・なんだかやっぱり面白い部分だと思います。
血中phについてですが、高校の時の保健の先生(男)が
“昔から山村には男が多く、漁村には女が多い。私は男女男がよかったので、最初の時は野菜ばかり食べて次は魚・・・という生活を送っていればちゃんと男女男の順番で生まれてきたぞ ”と自慢げに話していたのを覚えています。他に産む側の女性のカロリー摂取量が低ければ女児が産まれやすいなどもあり、ある特定の物質かphなのかはよくは分かりませんが食べモノ以外だとすれば強固な何か・・・もしくは何らかの神秘的、精神的作用が働いているのではないのかなって思っていたりします。
>男女比の縛り、他動物との競争、能力の最適化などについて
なるほど、確かにそれは言えますね。似た類の動物でも一妻制だったり多妻制を取っていたり様々ですが
それらがその動物に与える精神的感覚への作用とか
本能が言わんとするものと自己尊重と信頼(社会?)が作り上げようとした信念、理念理想のようなもの・・・そこに絡みに絡んでくる神
そういう事を考える自分を取り巻く世界はなんだか酷く曖昧で、途方も無い。
けれどもブー太さんという人間がいることを私は知っている。それに随分救われました
根本的に分解し経済と平和を結びつけるあたり、なかなかこういうセンスのある人間はいないなと思いましたよ笑
僕にはこんなに多くのジャンルの記事を書くことは出来ずにいるのに、そんな極地的な自分の考えでさえ斜め上を行くブー太さんの記事に出会えて嬉しく思っています。それにお返事までしていただいて本当にありがとうございました
仰る通り、貨幣社会がいつまでも続くとは僕も思えないでいます
そしていつかは分かりませんが人間も動物と同じようになるかもしれない
そいつの目の前に“台本”があって、多くの人間が人間であることを演じる動物である限り
滅ぶのが先かは分かりませんが。地球滅亡のその日まで
この日記が残り続けている事を祈っていますよ笑
男か女かある程度、産みたい性別を意識して左右できるのなら、
適応の作用が人の意識にまでおよんでいないと均衡を維持するのは無理ですね。
下手したら男子相続とかも、そういう局地的な帳尻合わせの一環なのかも。
僕もはるばるさんのコメントにたいへん救われました。
考えて辿り着いた先が、他に誰もいない閑散としたところでは切ないですもんね。
でも貨幣については今借りて読んでいる本に刺激を受けた部分が大きくて、
言うほど独自見解というわけでもないんですよ。
むしろそれまで紙幣の仕組も知らなくて、身内に笑われちゃいました。
実は最近、考える行為に対してちょっと悲観的だったんですが、
やっぱり考えることは楽しいと改めて思えました。ありがとうございます。