きせきせん

2008年12月7日 ゲーム
数学だけは努力に意味のないものだと思
あれはなんというか格のようなものを表す指
例えばそれがに見えても替わりにその専門分野や生活視野において
になるのは結局知覚自体が数学で置換しうるものだからに

一体何の意味があるのだろう。
いや最終的に何も意味がないのは分かっている。
そしてそれまでの間は必ず意味があることも分かっている。
ただそれらのなかで一体何の意味があるのだろう。
生きている時間は長い。
別のことをしても前のことを忘れてしまうし、
同じことを続けても必ずしも何かが成せるわけではない。
最終的には意味はないし、その中身も
いやいやいや。

がんばれがんばれというが、実際は人それぞれ限度があるのは分かっているはずだ。
肥満とか飽き性とか、がんばろうとがんばれるならがんばらない理由はないのである。
能動的な思考、想像力はその中でもわかりやすい。
デザインにしても、単純な幾何立体を組み合わせていくつ物を考え出せるかというと、
疲労困憊する前にすぐに出てこなくなってしまう。
それに、よりいいものを、と条件をつけるのが能動的な創造だが、
限界と呼べる遥か手前でがんばることなどできなくなる。
創作で血反吐を吐くなんて無理だ。
でもそれやったことないからじゃない?

人のがんばりに惑わされちゃいけない。
あれはそんなにいいものじゃない。
僕ならそれじゃ満足できない。
どれだけ人の自覚可能な情報処理部分が限定的なのかは知ってる。
何かに集中すればその理解に費やしている容量が破棄されて、
理解できていない状態に陥ることも分かっている。
理解はこの意識上に展開されていて初めて理解と呼べる。
定理や知識は理解とは言わない。
そして理解している状態でないと意味がないのが哲学だ。
何かに集中するということは哲学を失っている状態ともいえるわけだ。

世界や政治はゲームだと思う。
ゲームが理解できていなければ世界や政治は理解できていないし、
世界や政治が理解できていなければゲームは理解できていない。
ただ、ゲームは貨幣制度だとも思った。
さまざまな約束と信用に基づいて価値をやり取りしている。
物理世界、人間の知覚不能な原なる世界は違うが、
人間が知覚している社会、世界、全宇宙は貨幣制度そのものではないかと思った。
言い換えれば脳の知覚形式を最も適切な形で例えたなら、
ゲームも近しいが、それは貨幣制度のような気がする。

ゲームを単純な段階の羅列で考えていると、
価値観のやり取りが浮かび上がってくる。
レア度にはばらつきがいる。確率は不均一でないといけない。
価値の配分を通じて現れてくるのは情報量だ。
単純な情報量は計算式で増やせる。
さらに増やすなら計算式そのものを増やさなければならない。
もっと増やそうと思ったら計算式という概念そのものに相当する
他の概念に基づいて世界を構成しなければならない。
猿山スケール。

変われる予感がしない。
ほんの数年前まで何でもやれそうな気がしていたのに。
すぐに限界が見える。どこから長期戦の始まりかが見える。
才能に劣ることがわかる。才能の可能性は純粋であること。
純粋さにおいて劣っていることだけは確実にわかる。
どうしたもんか。
どうすりゃいい。
頭わりいぞ。
いや悪くはないはずだ。
ただよくもない。無茶はきかない。
取り柄はなんだ。少なくとも頭はよくないんだ。
そこで張り合っちゃいけない。
頭のよさは根源だ。根源のひとつだ。
歩くにも殴りあうにも謎掛け合うにも、頭のよさを根源にしたやり方もあれば、
別のものを根源にしたやり方もある。
処理能力の程度は種類のひとつに過ぎない。
謙虚になれ。白は白。黒は黒だ。幻想を白として扱うな。幻想は幻想として扱え。
黒は黒として扱え。それで無理なら本望だわ。

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