作曲者が痛かったり臭かったり共感できないくらいで
音楽を楽しめないなんて馬鹿馬鹿しいとは思わないか。

入念な検証によってこのたび発覚した方程式によると、
音楽スキルと人格のイタさは正比例するのである。
誤解されることの無きよう。
つまり、あれは嫌悪しなくてもいいものだった。
それだけで新世界が開ける。

恐れていた変化が今まさに起きているかもしれない。
未知の知識を前にして、それがどうでもいいように感じてしまう。
これは大人化だ。既知範囲外への興味を失わせ、
不安定な思想を芽生えさせないようにする。
僕の考えではそれは遺伝予定で直接脳に作用する。
逃れるすべはない。神が数多仕掛けた人を木偶とさせる罠だ。

最も恐れることはそれが出来ていないにもかかわらず、
出来ていると自分では満足することだ。
腐った目をしながらそれを笑ってごまかすことだ。
楽になるな。どんどん苦しくなれ。
たとえ地球で苦しむ最後の一人になっても、
誰に耳も貸す必要はない。最善手を打ち続けるのみ。

最近まれに人間の顔面が、
脳をのせて各デバイスを配置した箱に見える瞬間がある。
このような知覚は僕にとってはグロテスクであるどころか、
より真実に近い姿としてそれまで以上に愛情を感じるものなのである。
残酷や憎悪とグロテスクは違う。
基礎や過去を学べという忠告はあまり好きではない。
そういう人たちがいう基礎や過去というのは、
ただ単に自分にとっての覚えやすかった基礎や過去でしかない。
真なる基礎と過去について、その有用さの線引きは
彼らの現時点でのスキルの都合のいい限度で引かれる。
基礎と過去を最も軽んじている者こそ彼らなのではないかとさえ思ってしまう。

気ばかり焦る。
将来必要以上に技術を費やした作品は無意味なんて通説が共通認識されたらどうなるんだ・・・
そうじゃないかと思いつつ自分を信じれずに真逆の駄目なことを続けていていたなんて最悪だ。
すごいとか不可能だとか思わせる仕組みは分かっている。
本当は真に驚くに値するべきものなんてない。
驚くというのは理解努力の放棄だ。
僕は自分が楽をして楽しむためにわざと驚くに身を任せている。
しかし誰が責められる?
いや誰にも責めることなど出来はしない。
だがだからといって責められないなどということがあっていいはずがないのだ。
誰もいなくても僕には僕がいる。

あまりの作品形態の多様さに立ち尽くす。あるいは立ちすくむ。
世界は広い。
宮本茂さん程度を天才だなんて評する閉鎖空間など論外だ。
さまざまな物。さまざまな思考。さまざまな生活。
脳で彩られるありとあらゆる活動。
全て知り、理解し、試し、力になりたいと思う。
でもそんなことはできないのだ。

この世はますます深く、力はただただ弱るばかり。
もはや見つかる宝石は値も評もつかないが、それでも出会う何より美しい。

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