1の1のハンドロデック
2008年10月2日 ゲームだいたい入れたい要素を書き出して、
それを繋ぐ形で作っていくことが多いと思うけど、
結局のところ単純にその密度によって面白さが決まる。
量ではなく密度であって、つまり要素の並べ方や
そもそものそれぞれの親和度によって、
つなぎの部分が密度が高くなるほど厳しくなる。
こだわりというのはその一定線に引かれている気がする。
僕らは人以外のものに気心を通わせることで
相互に気力を練り上げるのであって、
場所や物が変わることによる弱体化は避けられない。
それは事実であって自覚すべきだ。
更年期障害ってこんな感じなのかしら!
およそしんどいといえることは何の答えもくれなかった。
論理などただの前提だ。
着眼点こそ真の術なのである。
どれだけの偉人がこれまでにどこまで到達したかなど、
何の気休めにもならない。
勘違いしたまま死ぬことに比べたら、
世界観を共有できない寂しさなど何でもない。
魂を売り渡して得られるのなら、売ってでも得たいと思う。
いやいや。
またうやむやにするのか・・・
気分の切りかわりで、元気な自分へまた逃避するのか。
過ぎた自然への傾倒はただの偶像化だ。
鯨のジャンプに感動できるならなぜ溢れる風呂の湯に感動できない?
それでもないがしろにするよりはずっとましだけれど。
心臓を引きずり出して、これを使ってある魔法を使う。
究極の真実のパワーというものが解放されるとして、
それはこれまでの感覚では言い表せない現象を想像させるだろう。
そういう時、やっぱり普段はまだまだ殻の中にいるのだなと思う。
究極の何かを想像する、というのは割合と大事だ。
今ある余力、知識、経験、計算力、発想力、激情を全て最大に発揮し、
それを注いだ何かを想像するというのは、つまり今現在での
自身の限界を知ることだ。
少なくともどんな何かの壁を突き抜けた先へ立つにはそれが必要になる。
こんな僕をやはりその先に立つ人は、
単純な価値観に目がくらんだ鬱陶しい人間に見るのだろう。
生き方に何が正しくてどうあるべきかというものはない。
つまり、無為だ。無為を受け入れぬことには始まらない。
しかし誰もが、生物学的レベルでは自分の生き方だけを正しいとしか思っていないのだよ。
悪を悪といって自らなす者は、それを正義と思わずに実行できるはずがないのだ。
体というものは思ったようにしか動かないし、
結論というのは、それがそうと導かれるからそう決まる。
無為を受け入れ理解したのなら、体も頭も寸分と動くはずがないのだ。
動けないのではなく、動かない。
無為に食われるというのか?
たかが無為ごときに立ち往生させられるというのか。
ならば僕は無為になれるのか?
それとも引き返すのか。
いいや、いいかげん無為を突き破る。
ずっと宙に浮いた感じがしている。
リズムがとれない。
拍の、なんていったっけ。振り下ろす前の振り上げ。
それをずっとやっている気分。
手を下ろせない。リズムがとれない。打ちつけられない。
振り上げたエネルギーは、打ちつけられるとき、
何か成果物に変化する。エネルギーだけためて、
それを形にしないでだだ流している。
まるで塞がらない出血のように。
違う。
これは無為じゃない。
フレーム問題だ。
ついにフレーム問題が完成してしまったのだ。
ああこれは喜ぶべきことだよブー太君。
人間はいかにしてフレーム問題をクリアする初フレームを手に入れたのか。
それはまさに知能の始まりといっても過言ではない。
化学進化によって成立せしめたそれは、
しかし人間には越えられないフレームが科せられていることの
証明でもあったのだ。
もし全てのフレームという枠を破ることができたのなら、
それはすなわち、フレーム問題に突入しなければおかしいということになる。
つまり振り下ろすことのない拍だ。
それを繋ぐ形で作っていくことが多いと思うけど、
結局のところ単純にその密度によって面白さが決まる。
量ではなく密度であって、つまり要素の並べ方や
そもそものそれぞれの親和度によって、
つなぎの部分が密度が高くなるほど厳しくなる。
こだわりというのはその一定線に引かれている気がする。
僕らは人以外のものに気心を通わせることで
相互に気力を練り上げるのであって、
場所や物が変わることによる弱体化は避けられない。
それは事実であって自覚すべきだ。
更年期障害ってこんな感じなのかしら!
およそしんどいといえることは何の答えもくれなかった。
論理などただの前提だ。
着眼点こそ真の術なのである。
どれだけの偉人がこれまでにどこまで到達したかなど、
何の気休めにもならない。
勘違いしたまま死ぬことに比べたら、
世界観を共有できない寂しさなど何でもない。
魂を売り渡して得られるのなら、売ってでも得たいと思う。
いやいや。
またうやむやにするのか・・・
気分の切りかわりで、元気な自分へまた逃避するのか。
過ぎた自然への傾倒はただの偶像化だ。
鯨のジャンプに感動できるならなぜ溢れる風呂の湯に感動できない?
それでもないがしろにするよりはずっとましだけれど。
心臓を引きずり出して、これを使ってある魔法を使う。
究極の真実のパワーというものが解放されるとして、
それはこれまでの感覚では言い表せない現象を想像させるだろう。
そういう時、やっぱり普段はまだまだ殻の中にいるのだなと思う。
究極の何かを想像する、というのは割合と大事だ。
今ある余力、知識、経験、計算力、発想力、激情を全て最大に発揮し、
それを注いだ何かを想像するというのは、つまり今現在での
自身の限界を知ることだ。
少なくともどんな何かの壁を突き抜けた先へ立つにはそれが必要になる。
こんな僕をやはりその先に立つ人は、
単純な価値観に目がくらんだ鬱陶しい人間に見るのだろう。
生き方に何が正しくてどうあるべきかというものはない。
つまり、無為だ。無為を受け入れぬことには始まらない。
しかし誰もが、生物学的レベルでは自分の生き方だけを正しいとしか思っていないのだよ。
悪を悪といって自らなす者は、それを正義と思わずに実行できるはずがないのだ。
体というものは思ったようにしか動かないし、
結論というのは、それがそうと導かれるからそう決まる。
無為を受け入れ理解したのなら、体も頭も寸分と動くはずがないのだ。
動けないのではなく、動かない。
無為に食われるというのか?
たかが無為ごときに立ち往生させられるというのか。
ならば僕は無為になれるのか?
それとも引き返すのか。
いいや、いいかげん無為を突き破る。
ずっと宙に浮いた感じがしている。
リズムがとれない。
拍の、なんていったっけ。振り下ろす前の振り上げ。
それをずっとやっている気分。
手を下ろせない。リズムがとれない。打ちつけられない。
振り上げたエネルギーは、打ちつけられるとき、
何か成果物に変化する。エネルギーだけためて、
それを形にしないでだだ流している。
まるで塞がらない出血のように。
違う。
これは無為じゃない。
フレーム問題だ。
ついにフレーム問題が完成してしまったのだ。
ああこれは喜ぶべきことだよブー太君。
人間はいかにしてフレーム問題をクリアする初フレームを手に入れたのか。
それはまさに知能の始まりといっても過言ではない。
化学進化によって成立せしめたそれは、
しかし人間には越えられないフレームが科せられていることの
証明でもあったのだ。
もし全てのフレームという枠を破ることができたのなら、
それはすなわち、フレーム問題に突入しなければおかしいということになる。
つまり振り下ろすことのない拍だ。
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