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2008年10月1日 ゲームrr
ぽお、
すいに すどきに
ずっと作ることのほうが孤独で、寂しがりには向かないのだと思っていたけど
よく考えたら作らない方が、少なく同じ人としか遊べない。
本当は寂しいから作るのではないかとか思う。
そのうちだから、作ることの多数と、作らないことの少数を
選ばなければならない時が来るんじゃないかと感じた。
時間の使い方はリアルで、時間は大事なものの指標で、
時間を割かれないものは大事でないものの裏返しになる。
作ることに限らず、素手より外側のことに時間を割くのは、
手近の人にとってとても残酷なことだ。
きれいごとを排するなら、遠くの多数を喜ばせられるなら、
近くの少数を喜ばせることなんかはずっと容易い。
その容易いことすら惜しむほど時間を削出することに、
作り手のおぞましいエゴがある。
華やかで、濃密な時間をすごすほど楽しいことはない。
どんなに辛いことでもそれは幸せなことだ。
本当に辛いのは退屈で、その感覚はきっと本当の意味では
作り手には知りえない。
それは退屈の退屈で、退屈の中で退屈しているから、
寂れて、薄まってゆく。
本当に辛いのは退屈で、その感覚は絶対に作り手には分からないにもかかわらず、
作り手は華やかで濃密な時間をけして手放そうとはしない。
現実は退屈なものだ。
悲しく思うし、憤りも感じる。
なぜ誰も彼もが輝けないのか。
一人でも楽しくないのなら、世界に価値などあるまいに。
ひたすら何もせずにしきりに考えるのは、
作るって何か。ということです。
なぜ作ったものは売れるのか。
人に見せることはどの程度の意味をもつのか。
それは感情のはけ口なのか。
芸術なのか。
くもった窓にへのへのを描くのとビーナスの誕生はどう違うのか。
それは無意味なのか。
共有なのか。
自慢なのか。
ただの楽しむための道具として機能すればいいのか。
追求なのか。
趣味なのか。
憧れなのか。
空想世界なのか。
切望する何かを訴えるための手段なのか。
技巧的感嘆を呼び起こさせ魅せ楽しませるものなのか。
やらなかったら何か悪いことがあるのか。
なぜやった方がいいと感じるのか。
ただの生理現象なのか。
その全ての問いに答えることがかなわない。
それにもかかわらず、作らないことを想定した未来を描いたことがない。
とてもとても不安で、混乱する。
ついにその混乱は極限に達し、何も手につかず、
ひたすらしきりにその答えを問い続けるだけの日々が続く。
ケーワンを睨みながら、どこかにその答えが見いだせないか
問い続ける。
彼らはなぜ目指し続けられるのか。
不思議でならない。あらゆる人たちの忍耐について思う。
その過程と日常を想像して、それを維持するのに
彼らが何をもってして可能にしているのか、
観察することで、どんな方法であっても見つかるなら、見つけたい。
あのような台詞がまず魔裟斗選手から出るのは、
同じ問いをやはり何百何千と繰り返しながら、
しかもまだ明快な答えに至っていないからなんだろう。
微妙なニュアンスからまさにそう感じた。
迷っているがゆえに、続けることが大切だとは、言えない。
続けていれば何かしらの節が得られる。それだけしかわからない。
現実に向かい合うことや暗い問いに耳を傾けることは
ネガティブとは違う。けどこれはそうだ・・・
同じ事実でも他にいくらでも楽観的な言いかたはできる。
不厳正な煽りだ。とてもとてもネガティブな方へ傾いている。
行動の起こりは感情だ。
それに付随する技巧や洗練、勝敗、説得力等全てはただの結果の
バリエーションに過ぎない。
それは実はなんとなくわかった・・・
感情が完全に白紙化されればいずれ考えることもなくなるだろう。
ひたすら無念だ・・・
クオリティは感情のためにあったというのをたまに忘れていてしまう。
背中からぞわぞわいろんな感情が這い上がってきて、
すっかり黒く硬く冷たく凍りついた心臓とせめぎあって
体の中でスチームがわき上がっているような感じがする。
本心がわからない。
もしかしたらこの非同一性は本質なのかもしれない。
本質的に人の心というのはさまざまな臓器、分泌腺、神経系が、
それぞれに局地性を保っていて、心が統合されていないのは、
元々そういうものだからなのかもしれない。
体は一つだからよくその住人が一人だと考えてしまうけれど、
人格を統一するも何も、器質的に分離している、精神的にいえば、
元々本質的に異なる核を持つ複数の論理体なのではないのだろうか。
それを不確かな状態で、自分だと思っているんじゃないだろうか。
いや、それは問題じゃなくて、
今重要なのはこの凍った心臓のほうをどうやって解かすかなんだ。
感動結構。しかしこの黒い心臓が最も強い決定権を持っていて、
逆説的にそれは最も重要視している感情に他ならない。
そしてそれはもはやとても感情に見えないほど変質して異質なものになってしまっている。
そしてそれは、めちゃくちゃに荒廃してしまっている。
どんなせせらぎも一瞬で涸れ上がってしまうくらいに。
そしてそれは何らかにも傾向を持つものではない。
真理に触れて凍結した宇宙の寒さなのだ。
宇宙の寒さは地球の暖かさを否定しないが、
地球の暖かさが宇宙の寒さを和らげることはできない・・・
ここは宇宙だ・・・
地球が手招きして下りてくるのを待っている。
「迷うときはあってもいずれ答えを見つけ出すだろう」
という幼稚な予定調和が、息苦しい地球へのレールをひく。
・・・
ぽお、
すいに すどきに
ずっと作ることのほうが孤独で、寂しがりには向かないのだと思っていたけど
よく考えたら作らない方が、少なく同じ人としか遊べない。
本当は寂しいから作るのではないかとか思う。
そのうちだから、作ることの多数と、作らないことの少数を
選ばなければならない時が来るんじゃないかと感じた。
時間の使い方はリアルで、時間は大事なものの指標で、
時間を割かれないものは大事でないものの裏返しになる。
作ることに限らず、素手より外側のことに時間を割くのは、
手近の人にとってとても残酷なことだ。
きれいごとを排するなら、遠くの多数を喜ばせられるなら、
近くの少数を喜ばせることなんかはずっと容易い。
その容易いことすら惜しむほど時間を削出することに、
作り手のおぞましいエゴがある。
華やかで、濃密な時間をすごすほど楽しいことはない。
どんなに辛いことでもそれは幸せなことだ。
本当に辛いのは退屈で、その感覚はきっと本当の意味では
作り手には知りえない。
それは退屈の退屈で、退屈の中で退屈しているから、
寂れて、薄まってゆく。
本当に辛いのは退屈で、その感覚は絶対に作り手には分からないにもかかわらず、
作り手は華やかで濃密な時間をけして手放そうとはしない。
現実は退屈なものだ。
悲しく思うし、憤りも感じる。
なぜ誰も彼もが輝けないのか。
一人でも楽しくないのなら、世界に価値などあるまいに。
ひたすら何もせずにしきりに考えるのは、
作るって何か。ということです。
なぜ作ったものは売れるのか。
人に見せることはどの程度の意味をもつのか。
それは感情のはけ口なのか。
芸術なのか。
くもった窓にへのへのを描くのとビーナスの誕生はどう違うのか。
それは無意味なのか。
共有なのか。
自慢なのか。
ただの楽しむための道具として機能すればいいのか。
追求なのか。
趣味なのか。
憧れなのか。
空想世界なのか。
切望する何かを訴えるための手段なのか。
技巧的感嘆を呼び起こさせ魅せ楽しませるものなのか。
やらなかったら何か悪いことがあるのか。
なぜやった方がいいと感じるのか。
ただの生理現象なのか。
その全ての問いに答えることがかなわない。
それにもかかわらず、作らないことを想定した未来を描いたことがない。
とてもとても不安で、混乱する。
ついにその混乱は極限に達し、何も手につかず、
ひたすらしきりにその答えを問い続けるだけの日々が続く。
ケーワンを睨みながら、どこかにその答えが見いだせないか
問い続ける。
彼らはなぜ目指し続けられるのか。
不思議でならない。あらゆる人たちの忍耐について思う。
その過程と日常を想像して、それを維持するのに
彼らが何をもってして可能にしているのか、
観察することで、どんな方法であっても見つかるなら、見つけたい。
あのような台詞がまず魔裟斗選手から出るのは、
同じ問いをやはり何百何千と繰り返しながら、
しかもまだ明快な答えに至っていないからなんだろう。
微妙なニュアンスからまさにそう感じた。
迷っているがゆえに、続けることが大切だとは、言えない。
続けていれば何かしらの節が得られる。それだけしかわからない。
現実に向かい合うことや暗い問いに耳を傾けることは
ネガティブとは違う。けどこれはそうだ・・・
同じ事実でも他にいくらでも楽観的な言いかたはできる。
不厳正な煽りだ。とてもとてもネガティブな方へ傾いている。
行動の起こりは感情だ。
それに付随する技巧や洗練、勝敗、説得力等全てはただの結果の
バリエーションに過ぎない。
それは実はなんとなくわかった・・・
感情が完全に白紙化されればいずれ考えることもなくなるだろう。
ひたすら無念だ・・・
クオリティは感情のためにあったというのをたまに忘れていてしまう。
背中からぞわぞわいろんな感情が這い上がってきて、
すっかり黒く硬く冷たく凍りついた心臓とせめぎあって
体の中でスチームがわき上がっているような感じがする。
本心がわからない。
もしかしたらこの非同一性は本質なのかもしれない。
本質的に人の心というのはさまざまな臓器、分泌腺、神経系が、
それぞれに局地性を保っていて、心が統合されていないのは、
元々そういうものだからなのかもしれない。
体は一つだからよくその住人が一人だと考えてしまうけれど、
人格を統一するも何も、器質的に分離している、精神的にいえば、
元々本質的に異なる核を持つ複数の論理体なのではないのだろうか。
それを不確かな状態で、自分だと思っているんじゃないだろうか。
いや、それは問題じゃなくて、
今重要なのはこの凍った心臓のほうをどうやって解かすかなんだ。
感動結構。しかしこの黒い心臓が最も強い決定権を持っていて、
逆説的にそれは最も重要視している感情に他ならない。
そしてそれはもはやとても感情に見えないほど変質して異質なものになってしまっている。
そしてそれは、めちゃくちゃに荒廃してしまっている。
どんなせせらぎも一瞬で涸れ上がってしまうくらいに。
そしてそれは何らかにも傾向を持つものではない。
真理に触れて凍結した宇宙の寒さなのだ。
宇宙の寒さは地球の暖かさを否定しないが、
地球の暖かさが宇宙の寒さを和らげることはできない・・・
ここは宇宙だ・・・
地球が手招きして下りてくるのを待っている。
「迷うときはあってもいずれ答えを見つけ出すだろう」
という幼稚な予定調和が、息苦しい地球へのレールをひく。
・・・
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