とりびゅーっと

2008年3月11日
ああ胃が痛い・・・

例えば空間をゆがめて全地球上から見える巨大で美麗な花火を
実際に打ち上げるプロジェクトを成功させたとして、
完全リアルCGで臨場感たっぷりの同様の光景を作成し、
無料動画として配信することと、一体どちらが面白いか?

そう例えば今同時に60億超全人類を誘拐し、
それぞれを別々のスタジアムに選手数ずつだけ送り届け、
その場でベースボールをやってもらったら、とても面白い。
しかし僕はプロ野球はぜんぜん見ない。

さて面白いことというと、意外と古来の娯楽ですら
ブレインちっくであるのだ。
濃密な娯楽というのは最終的には頭の中で完成する。
つまり、そう、目は360度見えない。
ごく一面しか見えない。それによって得られる感受は、
あくまでリアルタイムではその範囲の限界を超えない。
しかし、しかるべきデータを適切に分散し得ることで、
頭の中で360度の視界を感受することはできる。
つまり、つまりだ、
限りなく広義の情報の原本と加工の是非について、
必ずしもオリジナルは感動の類に関して優位であるとは言いがたい。

しかるに、なんか面白いことはないか。
突発的に、投げやりに何かをやってみたところで、
それがリアルかヴァーチャルかにかかわらず、面白さには限界がある。
いずれにせよ、面白さは頭の中で完成する。
ただ歩いても、見ても、話しても、それ以上にはならない。
それに付随するさまざまな知識、利害、感情が頭の中にあって、
はじめて濃密な娯楽に完成する。
重要なのは下準備なのだ。
面白さは下準備に比例する。
それに関連付けられる色鮮やかな観念の数々が
頭の中に前もって構築されていることが、
人間がある一定以上の面白さを感じる為の必要条件になる。

コンパクはハオやってます。
リードが上手過ぎるんですが、
やっぱりこういう部分は評価されにくいのかなあ。

ちなみに以前から待ちに待ってる公開寸止めフリーゲームがあるんですが、
もしかしてこの時間がもっと続けば続くほど未来は明るくなるのでしょうか?
光が・・・光が足りない・・・

正直、限界っていうのはあるよなあ。
僕のがんばってるが、ある人のやって当たり前レベルっていうのは
どうしようもなくある。
っていうか、がんばってるつもりでも、
見返したら大して頑張ってなかったっていうのが実際だ。
そういう時、それが限界というもんかとか思う。
でも、できるかどうかってあまり重要じゃないんじゃないか?
それができた時、たぶん僕はずたぼろで、
他のものは何も目に入らない廃人ぎりぎり状態のはずだ。
それって本当に限界を超えた理想の自分?
たぶん違う。
でもやれることだけやるなんて言いたくないし、できない。
でも結果だけ見たら、やれることどころか、
そのほんの一部しかやってない。
そういう時、それが限界というもんかとか思う。
でも

イメージっていうのは大切で、
脳とか精神構造とか限界はあって超えられない法則は
あるはずなのだけど、
それでもそれを突き破って未知の何かを生み出せるイメージを強く持つと、
実際に独創的な別次元の何かと思えるような何かを
生み出せることがある。
そういう時、必ず宮崎駿が浮かぶ癖がついている。
僕にとってはそれだけが未知の存在を信じることのできる
唯一の説得力なのです。
たぶんもっと脳みそはすごい使い方ができる。
それは才能なんか必要のないところにある。
信じることだ。
どこまでいっても信じることだ。
それがあることを信じることだ。
地の果てまで行ったつもりでも次があるんだ。
袋小路に思えても、原因が自分の不甲斐なさにあったとしても、
あることを信じよう。
素晴らしい何かがある。
確実にある。
イメージだ。未知のイメージ。
あの枠がぶっとぶイメージ。
今まで作った区分けに分類できない、またがったような、
例外のような、実は初めて目にするんじゃないかと、
じわじわ思ってくるような、あのイメージだ。
イメージを持つことだ。
それが希望だ。
希望を見つけよう。
イメージだ。
ビジョンじゃない。
イメージだ。
あの背筋がぞくぞくする感覚だ。
あれを見つけるんだ。
実はどこにもありませんでした。なんていう
のは現実だ。現実など妄想だ。
過去だ。都合のいい幻想だ。
イメージこそ現実だ。希望だ。糸口だ。
そしてそれは実際にある。
あると信じられる。
信じられる僕はものすごく幸運だ。
ありがとう。ありがとう。

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