さて、何を書こう。

幸せって何だっけ・・・
やめとこう。

導入理論。
心理学的応用理論の禁則の整備。
やめとこう。

Dをカスと書いたことをあやまろう。
ごめんなさい。

筋トレを100回やると安眠できるらしい。

ロリータの屈託のない笑顔だけが僕を癒してくれる。
言い換えるとケロ村ハァハァ。

例えばこの時間を習慣レベルで他にあてたなら、
スキル一つを維持することは可能かもしれない。
だがあえて、と言いつつ僕は結局、
無駄系のプランを一つも書き加えなかった。

一生懸命葉っぱの色を覚えてたら夢だった。
やっと色ニューロンができたらしい。
というか起きてる間の10倍くらい夢の中で独り言いってるんだが、
これって病気?いいえ、マゾです。

たぶんフレーム問題は効率方程式で解決できるんだ。

何か足りないのが気のせいのような気がしてくる。
何かの視点をひっくり返すと、大切なものがどうでもいいことに、
どうでもいいことが大切に、なるような気がしてくる。
でもそれは自戒を装った逃避。
万物は全て万物段階にあるべくして座している。

多くの原初論理。
つまり人と蚊の命の重さは等価だとか、
江戸文化と近代文化は等しく稀有であるとかいうのは、
述べ手の分際が人間であるという縛りを加えるだけで
ほとんど無意味化することができる。

しかしではその人間の分際であらんとする傾向それそのものは、
一体どこから来るものなのか。
人は慣例の後から理屈をつける性質があると切り捨てるのはたやすいが、
あほくさ。

引き篭もりが外に出るとファンタジーに見える気持ちは分かる。
実際に分かるし、開眼しても同じことが起こる。
それはそれとして、
体験的面白さとデジタルの面白さの違いっていうのは
何というかやっぱり別物で、
いややっぱりよく分からんな・・・
ただ、体験もいうほど面白くはない感じがした。
なんかそんな気がしたの。

そう多分だから、媒体がどうというより、
どれだけ自分に吸収能力があるかなんだと思う。
少なくとも色彩の時間変化、置物、パース、視点を考えると
近所の散歩コースですら何年歩いても足りない。
音、匂い、出来事、歴史、言うに及ばず。
一方、本といえど内容に限らず、文調、構成、著者、年代、
思考、常識、少し一般には言われない視点だが、
枠を外して見れば得られる事は無限にある。
ホテルに残ったメモ帳の落書き一枚で
地球の始まりから終わりまで起こった事を全て読み取るということも、
出来なくはないだろう。
これは誇張ではない。
この程度は出来ておかしくはないはずなんだ。
これはこの程度なんだという思い込みが無限の情報を見えなくしてしまう。

読み取る力は面白さに直結する。
面白さを作り出すというのは、見過ごされている面白さを
加工して色をつけて人の目の前まで引っ張ってきて
ドシンと置いてこれ面白いよ!という行為なんだ。

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