サンクチュアリ

2007年10月2日
いい天気。
気が変わった。今日は外に出よう。

改めていい曲。
振り返ってみると、感動したりした時にすごい力が出るのは
原初、名前がないから仮にこう呼ぶけど、
の力に触れていたからなんだなあ。
一時期、建物や道路を見るたび感動してた時があったけど、
そこは元々何もなくて、全部人間が作ったもので、
道路ができる前から道があって、ここが平らなのは
千年前に誰かが平らにしたからで、草木も生えていて、
それができたのは近くに切り開いた集落があったからで、
というのを肌で感じて、いつも感動していた。
でもこんな風にそれを言葉で認識してしまうと、
それに慣れて、感動しなくなってしまう。
原初を言葉で切り取ってしまった為に、
元々つながっていた力の源から切り離されてしまう。
ゆえに原初は言葉で伝えることはできない。
ここでいう原初というのも仮のもので、既に切り離され、
力を失いつつあるものだ。
こんなに軽々しく使えるのも本物ではないから。
それもそのはずで、例えば死という言葉を使うたびに
本来の死の力に触れたりなどしていたら、
長い一生を正気で過ごせるわけもない。
その意味では人は皆生まれながらに巧みな魔術師というわけか。
実際この力は日常には強すぎる。
脳を最も鋭敏な状態に、つまり赤子の状態にするわけで、
成人でそれをやると体がもたない。
なんにしろ制御できなきゃ意味がないっつー

とかやってる時間はないのに!
基本的に力は誰かに明かすほど減るものだけど、
この場合、適度に減らさないと僕自身がもたないわけね。
あってもなくても厄介な。

アダム><

ドクター最高おもろい。
しかしテレビの突発企画の脚本系はでたらめ過ぎる。
要するに展開が一面倒なのだ。
カメラのある場面で話が展開している時に、
同時に別の場所で別の話が展開していて、
それを演出的に絡み合わせる手法が全く使えていない。
これでは世界の広がりもなく、意図の衝突もなく、
物語的に隔離状態にある。
独り言と相づちだけで成り立ってるようなもんだ。
単純に頭悪いってだけの話でもいいんだけど、
これって結局、自己中の脳内みたいで怖いんだよなぁ。
自分とは別の所でも色々なものが動いてる認識というか。

とてもやばい

どうでもいいけど霊撃使うと、
AMシューティングのバリアっぽいなーとか思う。
とか思うと逆にスペースクイーンが東方っぽく感じたりする、
ていうのは流石にこじ付けだけど、すごい普通っぽい。
ていうのは普通に計算されてるって意味で、
まさかAMシューティングがそんな繊細な調整されてるとは
思ってなくて、なんだーレインボーラインの
要素減っただけバーじゃーん。とか思ってたんですが、
すごい調整されてる。しかも常識的な難易度で。
他のも実はかなり調整されてたりするのかな。進めないけど。
でも互いに有名な作者さん同士になると、
互いに互いのゲームをし合ってるって事もあって珍しくないわけで、
それだけ力があるなら影響力もそれだけ強いわけで、
そんなほのかな影響が表れたかもしれないゲームの断片を想像して
むはむはするのもそれはそれで楽しかったりするのです。

まじでやばい

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