物語の類型はいくつかあるが、
人が死ぬまでに見る視点というか
光景というかひとつながりの経験みたいな何か
未だかつて名付けられた事のないそれは、
まあ人生のことだが、二種類しかない。

いかなる偉大な抒情詩であっても例外ではなく、
それは生き方に、自分の為か、
それ以外の為かの二通りしかない為であり、
どんな深遠な思想も中間などなく、
全てが二つに割り切れる。

来世の為に生きるというのはどちらなのだろう。
もしかしてこれだけは割り切れないのか。
昔の人間もよくやる。
もしこれで本当に生まれ変わりなどというものが
あったなら世界は完成していただろうに。

いやーそんな綺麗な話でもないか。
それ以外っても結局いくらか知恵のまわる者が
直接的でない利己術を伝えただけであって、
原始には寝て食って交尾するだけだった。
それが家を作ったり取り置きしたり異性の
ご機嫌をとったりする事の利己性を伝えられ、
それは始め遺伝子であったかもしれないが、
後にはある種の人間が後継し、総じてそれらは
預言者と呼ばれた。
ある意味、今日の我々の生きる動機のバリエーションは
こやつらによって作られたと言ってもいい。
その意味で彼らは紛れもなく預言者であり、
神の代弁者でもあったわけだが、
まあそう上手いこと話を進めさせてやる訳にもいかん。
ぶっちゃけて単刀直入な話、
何らかの意図で統制された観念というのは
人間の一生が費やす飽きを内包するには狭すぎる。
神の意図にはもう飽き飽きした。
客はさらなる広がりを求めているのだ。
飽き尽された旧世界のエピタフとして、
神よ瑞々しく真に新しき創作の為に死ぬがよい!

つけられるだけつけた。
後はのんびりやるだきゃー

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