タマキン
2006年11月21日ゲームを作らなければ・・・!
ゲームを作らなければ・・・!
ゲームを作らなければ・・・!
ものすごい勢いで掃除した!
あれ?
ベタだなあ・・・
皮肉なことに、
友人との会話が現実への命綱となっていると同時に
綱を手繰れば手繰るほど自分が致命的な欠陥持ちで
無能者であることを思い知らされる。
そこでは僕は何も持っておらず、
何もできず、何もしていなかった人になる。
そして事実そうであった。
ような気に自分でもなってくる。
いや!いやいやー!
やるってnなら何でもできるさ!でき・・・
は置いといて、することだけは出来る。
したいことはしてきた全部。たぶん。
したくないことはしてこなかった!
別に定形にはまる必要も無く、
10年何もしてなくても、やりたくなりゃ
夜中の二時からでも今すぐ始めりゃいい。
する為に、しない為に、したくないことを
しなければならないにしても、それはしたいことだ。
それは理屈だが、理屈を生身にするのは僕こそが長けている。
はずだ。
なんだったかアルジャーノンで、
知識が親しい人との関係を阻害する、みたいな台詞があって
3年ほど前は、それはないな。とうそぶいていたんだ・・・
何で俺はこんな不幸そうなの?
他人と迎合することはできぬ。
他人と迎合せず、しかし行動せよ。
独りで行動するというのはとても難しい。
お前に限らず。誰にとっても。
他人が行動的に見えるのは迎合している為であり、
お前が欠いたのは迎合という一点に過ぎぬ。
てことにしとけ。
だがだからこそ、
独りで行動できる力で埋め合わせなければならない。
先人はそうしてきたはずだ。
この力は今は無い。
だから今から身につけねばならぬ。
そこが踏ん張る所であり、迎合に心を砕いても無駄だ。
人はみな特別なのである。
同じようになることはできない。
必然的にカテゴリに包括できない離散的な
個体が発生し、彼は独りの術を学ばねばならない。
というわけでジャーノン読み返してきた。
知性とは儚いものだなぁ・・・
中学時代、今と同じような状態だった。
高校は普通っぽく過ごした。
それを通して書いた日記がある。
そしてこの日記を合わせると面白いものが見える。
知能の上下。
人間とはつまり時空的広範なパラメータから
シンボルを抽出する関数のことだ。
だから幽霊も見える。
科学とは空間的、瞬間的シンボライズに過ぎない。
時間的シンボルは魔法、シャーマニズム等によって
体系されていたものの左脳では理解が追いついていない。
この類は未来を予測する。
科学はこれを欠くために未来を予測できず、
社会は乱れた。
この知は知性か。
違う。少なくとも増減するものではない。
一般に言われる知性とは論理深度か記憶力のこと。
論理深度とは主語が述語に帰結する間に保持される
バッファの程度のことである。
これは先天的でもあるが可変でもある。
すなわち、のんびりするほど賢くなる。
だがこれは違う。
おそらく僕の特性は脳みそのかき出しだ。
既にあるものを全部かき出して、
新しいもののバッファを最大限とることでスペックを出す。
だから過去を失う。
過去を失うということは先入観を捨てるということだ。
この数年で僕が得た知というのは、
より過去を捨てることによって得る知だった。
人格を捨て混沌知を得、性別を捨て愛知を得、
年齢を捨て歴史知を得、人間を捨て生命知を得、
生命を捨て不死知を得、宇宙を捨て次元知を得た。
捨て知は帰るべき岸辺を失う。
シャーマンの修行が絶対に一人で行うことを
禁じられているのはこの為だろう。
この知はなんの役に立つのか。
役立たずとも過去をより解くだけで人の知能は上がる。
それは本来、これらの先入観が無意識として
占有していたメモリをバッファに
当てることが可能になるからである。
はいはいくまくま。
つまり最も賢いのは赤子か。
めしいの僧は神と再び拝謁できるほどの知を
得られたのだろうか・・・
しかし人は事象の象徴者である以上、
より豊かな事象に触れるほど豊かな魂を得るのだ。
見、触り、嗅ぎ、味わい、聞くほどに
人は正しい聖霊を見る。
幽霊を見るコツは、ふと感じ想像したものが
そこに無い必要などないという事に気づくことだ。
たちまちの内に全宇宙が異形にあふれかえり、
そのとき全ての異形に見つめられ、全てに初めて目があうだろう。
闇を見るものは同時に闇からも見られている・・・
ドーン
ゲームを作らなければ・・・!
ゲームを作らなければ・・・!
ものすごい勢いで掃除した!
あれ?
ベタだなあ・・・
皮肉なことに、
友人との会話が現実への命綱となっていると同時に
綱を手繰れば手繰るほど自分が致命的な欠陥持ちで
無能者であることを思い知らされる。
そこでは僕は何も持っておらず、
何もできず、何もしていなかった人になる。
そして事実そうであった。
ような気に自分でもなってくる。
いや!いやいやー!
やるってnなら何でもできるさ!でき・・・
は置いといて、することだけは出来る。
したいことはしてきた全部。たぶん。
したくないことはしてこなかった!
別に定形にはまる必要も無く、
10年何もしてなくても、やりたくなりゃ
夜中の二時からでも今すぐ始めりゃいい。
する為に、しない為に、したくないことを
しなければならないにしても、それはしたいことだ。
それは理屈だが、理屈を生身にするのは僕こそが長けている。
はずだ。
なんだったかアルジャーノンで、
知識が親しい人との関係を阻害する、みたいな台詞があって
3年ほど前は、それはないな。とうそぶいていたんだ・・・
何で俺はこんな不幸そうなの?
他人と迎合することはできぬ。
他人と迎合せず、しかし行動せよ。
独りで行動するというのはとても難しい。
お前に限らず。誰にとっても。
他人が行動的に見えるのは迎合している為であり、
お前が欠いたのは迎合という一点に過ぎぬ。
てことにしとけ。
だがだからこそ、
独りで行動できる力で埋め合わせなければならない。
先人はそうしてきたはずだ。
この力は今は無い。
だから今から身につけねばならぬ。
そこが踏ん張る所であり、迎合に心を砕いても無駄だ。
人はみな特別なのである。
同じようになることはできない。
必然的にカテゴリに包括できない離散的な
個体が発生し、彼は独りの術を学ばねばならない。
というわけでジャーノン読み返してきた。
知性とは儚いものだなぁ・・・
中学時代、今と同じような状態だった。
高校は普通っぽく過ごした。
それを通して書いた日記がある。
そしてこの日記を合わせると面白いものが見える。
知能の上下。
人間とはつまり時空的広範なパラメータから
シンボルを抽出する関数のことだ。
だから幽霊も見える。
科学とは空間的、瞬間的シンボライズに過ぎない。
時間的シンボルは魔法、シャーマニズム等によって
体系されていたものの左脳では理解が追いついていない。
この類は未来を予測する。
科学はこれを欠くために未来を予測できず、
社会は乱れた。
この知は知性か。
違う。少なくとも増減するものではない。
一般に言われる知性とは論理深度か記憶力のこと。
論理深度とは主語が述語に帰結する間に保持される
バッファの程度のことである。
これは先天的でもあるが可変でもある。
すなわち、のんびりするほど賢くなる。
だがこれは違う。
おそらく僕の特性は脳みそのかき出しだ。
既にあるものを全部かき出して、
新しいもののバッファを最大限とることでスペックを出す。
だから過去を失う。
過去を失うということは先入観を捨てるということだ。
この数年で僕が得た知というのは、
より過去を捨てることによって得る知だった。
人格を捨て混沌知を得、性別を捨て愛知を得、
年齢を捨て歴史知を得、人間を捨て生命知を得、
生命を捨て不死知を得、宇宙を捨て次元知を得た。
捨て知は帰るべき岸辺を失う。
シャーマンの修行が絶対に一人で行うことを
禁じられているのはこの為だろう。
この知はなんの役に立つのか。
役立たずとも過去をより解くだけで人の知能は上がる。
それは本来、これらの先入観が無意識として
占有していたメモリをバッファに
当てることが可能になるからである。
はいはいくまくま。
つまり最も賢いのは赤子か。
めしいの僧は神と再び拝謁できるほどの知を
得られたのだろうか・・・
しかし人は事象の象徴者である以上、
より豊かな事象に触れるほど豊かな魂を得るのだ。
見、触り、嗅ぎ、味わい、聞くほどに
人は正しい聖霊を見る。
幽霊を見るコツは、ふと感じ想像したものが
そこに無い必要などないという事に気づくことだ。
たちまちの内に全宇宙が異形にあふれかえり、
そのとき全ての異形に見つめられ、全てに初めて目があうだろう。
闇を見るものは同時に闇からも見られている・・・
ドーン
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