サテライト

2006年10月29日
やっぱだめだ・・・
他人に大切な何かを預ける類の勇気が持てない・・・
へたれめー!へたれめー!

人の信仰とは経験した結果群から全て決まる。
同じ現象でも失敗した人間は失敗の信仰を、
成功した人間は成功の信仰を持つ。
正義を信じる人間も悪を信じる人間もつまりはそれだ。
人からは色々なものをもらった。
その経験がある限り完全に人を憎むことはできない。

しかし自分が本当にやりたいことに関して、
人から何かもらったという経験は限りなく0だ。
例えばそう、中学時代、中間テスト期間でも
真っ暗の足腰立たなくなるまで1on1に付き合ってくれた友人。
今思えば、ああいうのが本当にやりたいことを
誰かと共有できた稀有な時間だったのだろう。
しかし今の状態において、
それを誰かに求めるというのはどう考えても不可能だ。
あまりにも僕は変質してしまった。
テレビの対談番組なんかを見てるとたまに
ああ、この人とは何か共有できるかもしれないな・・・
とは思うこともあるものの、
数少ない物理的出会いにおいてどうしてそのような人と
出会える確率を信じることができよう。
いや、確率の問題ではなく、
出会った事が無いのに信じられるはずも無い。
その手の勇気に関して限りなく欠けているのだ。
言い訳は長いよねお前。

やっぱだめだ。
別の方法を考えよう。
どのみち楽しむ人生より極める人生を選んだんだ。
いまさら見栄えを気にしてもしょうがない。
というかそれだ。
見栄えを気にしたり、極めることに関する以外の
ことをしている時、人生が楽しくないのだ。
それがイコール他人との関わり、になってしまうなら
しょうがない。人生楽しくないといかん。

とかいってたら旧友から絶縁のメールが届いた。
我ながら過去を置き去りにして生きる男だ。
しょうがない。心底冷酷なのは自覚してる。
それでどうしろというのだ。
自分を特別だと思うなとか本当は優しいんだとか
何の慰めにもならない。誰よりも己の心の
観察に長けた自身が冷酷なのを最もよく知っている。
だから死ねとでもいうのか。
まあいい、お前が死ねというのなら
もしかしたら死ねるかもしれない。
実際、もう死に場所を求めてるようなものだ。
昨日チャングム見てても思ったが、
今、目の前で自分より生きるべき有能な若者が死に瀕していたなら、
命を譲ってしまうかもしれない。
まあそんな奴はいねーけどな。
しねー!いますぐ八つ裂けろー!
とかいってたら復縁した。
本当にきわどい振れだよ。
ぎりぎりの所で人に救ってもらっている。
ダークサイドはこんなにも近い。
少なくとも借りを返すまでは死ねん世ね・・・

コメント