ふと素直に、

ゲームはストーリーで、
ストーリーはゲームなんじゃないの?

って気がした。

魔法入門は悪を以下のように挙げている。

第一に、「力」に対する「形」の本来的抵抗。
次に、無形態と混沌、「空間の堕胎児」、「宇宙的流砂」。
第三に、「不均衡な力」。
そして、組織的悪。

俺なりの解釈を交えて解説すると、

ひとつめは、
固体としての「形」は必ず「力」の流れを阻害する。
すなわち、確固とした「思想」は、
必ず、ある流れにとって、悪となる。
しかし書にも記される通り、
この悪は互いが互いを足がかりにする為の
必要の悪でもある。
「形」をとることは、悪かつ善である。

ふたつめは、
これこそ悪と書には記される。
なにひとつ確固とした形を持たない思想。
無形態なる流体の意志。
ここには明確な抵抗は存在せず、生命がより偉大な高みへ昇ることができる跳躍板もない。逆にあたかも流砂の移動する砂が「取り除く」意図もないのにからみつき、砂に頼っているもの一切を混乱させて、ついにその深みの中へとひきずりこんでしまうように、宇宙的混沌と関係しているこの悪も同じことをするのである。発展する生命は抵抗をみいだせず、"てこ"の支点を見失ったまま、この「混沌にして闇、夜の国の門」の中に吸いこまれて、無力化してしまうことになる。
創作者ならば必ず一度は囚われる悪かと思われる。
ついでに、ニートも。

みっつめは、
同じ性質をもつものが時や場所によって、
善となったり悪となったりするものである。
戦場での情けは悪であり、
太平での非情は悪である。

よっつめは、
完全な独自見解になるが、
組織悪の基本的な悪の起こりは、
人が人に命令することにあり、
人が人の命令を効くことにあると考える。
人によって行われる、悪意や害意を越えた悪とは、
己以外の意思決定が強要する、罪と残虐性の深さに際限のない、
非常に人間に根ざした極悪なのである。

いまだ悪はなにひとつ解決していないらしい。

傲慢な考え方かもしれないけど、
最近は教祖や開祖、求道者を、一人の友人のように
捉えることが多い。
おー、いいこというねーとか、
んー、これ書いた時ちょっと疲れてたんじゃないの?とか。
でも、これによってこれらが
危険なものでなくなるのも確かだと思う。

ただし、この偉大な"かの思想"というのは、
混沌に浮かぶ丸太か、イカダか、
"絶対沈まない"豪華客船みたいなもので、
結局、自分で混沌に浮かぶことすらできない人間が
つかんで暴れれば、そのままいつかは沈んでしまう。

しかも人は時期に違いはあるものの、
この混沌の海に必ず落っこちるようで、
とりえる道は、そのまま沈むか、何かを掴むか、
自力で浮かぶ以外にはない。
どうもこの宇宙には陸地がないように思える。
これは恐らく人の心そのものが混沌だからだろう。
たぶん昆虫とかの宇宙には陸地がある。
王蟲。

だから、
一応立ち泳ぎまでをマスターした身であるので、
宗教や密教ともフレンドリーに立ち話ができる。
互いにつかみ合って溺れることはない。
だが、溺れた者がこれを掴めば、
掴まれたものは確実に沈み、
しかし、
掴んだ者はこれを絶対に離そうとはしないだろう。
急速に沈んでいく船は、
もはや誰も掴もうとは思うまい。
これが現代の宗教の実情のように思う。
そして、現代の人々の多くはそのまま沈んでいく。

古代から続くこの箱舟は、
きっとこの人々を救う為に建造されたんだろう。
進化と文明のさなかで次々と暗い海に落ちていく人々を見て、
それに耐え切れず誰かが作った。
その誰かを讃えようと思う。
でも、その船に乗り込むってことではないということ。

もしくは、泳ぎ方や、どこかに陸地がないかとか、
この海はどれくらい深いのかとか、
その人にしがみつくのではなく、あくまでトーク。
で、大体は
"返事がない。ただの屍のようだ。だが本を持っていた!"
なことになる。

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いや、人は空から降ってくるわけじゃない。
舟の中で生まれるんだ。
わずかでも未来を保障するコミュニティの全ては、
人が混沌から逃れる為の舟なんだ。

宗教のあとを継いだのは企業。
日本から信仰を駆逐したのは終身雇用。
この舟は100年もたなかったなキャハハハh
ええい狂うな。

乗客が増えれば船は必ず沈む。
組織悪とは船が生んだ二次悪だ。
しかし人は混沌に漂うがゆえに船を作らずにはいられない。
船を渡り続ければ濡れずに生涯を終えることも
ありえるかもしれない。
しかし、海の底をのぞきすぎると 堕ちる 。
たまに喜んで飛びこむバカもいる。

これなら確かに、予言なんていう行為も
古代の神人ができたとしても不思議じゃない。
数千年以内なら、人類がとりえる文化形態と
その発展を、ある幾通りの中から推論できた可能性
は十分ある。
人は常に混沌にさらされているのだから。

外なる宇宙、内なる宇宙ともいうが、
人間の心が現時点の宇宙において、
最もかそれに追随するくらいエントロピーにおける
特異点をなしている可能性も確かにあるのかもしれない。
それがたとえ本当の宇宙の100億分の1の規模だとしても、
古魔法使いや古不死求道者の言うように、
そこに神が住まわないにしても、
我々には神と呼んでもよいほどの者がいると言っても、
それはそれで間違ってはいないんだろう。

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