明治17年のうにゃ〜

2005年6月27日
うにゃ〜やっとレーザーとローリング
切り替え自在に。
おかしがあああ
無意識に切り替えろってことですか。
やっぱ武道だ・・・

敵の固さ変わるのはちょっとなんか。

疑念がひるがえって押しつぶされるー
価値の全ては心の下に。
ただひとつ確かなものがあるとすれば、
それは自分の思い。
天高く積み巻き上げるには、
大地に深く穴を掘り抜き泥水をすくい出すこと。

んなこたあどうでもいい。
が、どういうものが愛を感じるか
にまでを分析し始めてる自分をぶん殴りたくなる。
好きな作品ほど分析したくない。
のに、それこそこのバカ脳は無意識に解析開始する。

頭の中に完成図があるものを再現しても、
思考の発展は望めなかろう。
製作の原点が他者にあることは間違いない。
もう一つ掘り下げるとすれば、
自分の感情とは他者の感情。・・・でもないか。

ん、つまり価値とは他者起源と自己起源の2種。
高位の穴を掘るには、偉大な他者を知るか、
極限の自己体験をするかの2通り。
はて、表現したい自分の感情なんてあるだろうか。
自分の感情をないがしろにしがちなのか、
それとも経験自体が浅いのか、
はたまた感情が動きにくい体質なのか。
なんにしろ、他者感情への異常な執着は
この反作用スペースが原因なのかも。

空論ぽいけど、僕にとっちゃまぎれもなく
技術論なんだよなぁ。そこらへんのズレか。

もっと表面的なゲームの理論でも語りたいけど、
山のように積もって何がなんだか。
むしろ、面白さの種類を探すんじゃなく、
種類の限定としてのゲームを定義すべきかもしんない。
でないと、世界が丸ごとゲームになる。
空論じゃないよ。技術論だよ。
つまり、ゲームジャンルの開拓ってのは、
本来のゲーム製作者の仕事じゃない。

ジャンルが飽きられるというのはありえず、
劣化するのはサーフェイスのほう。
劣化は技術ではなく、製作者の心。
名作を生むのは製作者の喜びと教養と苦悩。
ゲームが面白くなくなったとすればそれは、
製作者が喜びを失い、教養が減り、苦悩しなくなったせい。

まあ、ゲーム性に理解があるのは前提条件。
っていうほどゲーム性自体は難しくはないと
思うんですがどうでしょう。
ジャンル自体を生み出すのは心理学レベルまで
分解して理論化しなきゃなんないけど、
枠内ならほとんどの人が面白いものを提示できる。
むしろ重要なのが、システムシナリオの考え方や、
画面デザイン、グラフィックの「使い方」。
分析しちゃったのはしょうがないので、
愛はグラフィックに密接に関連する。

言葉は悪いけど、本当にいい物を作ろうと思ったら、
少数の人向けになるのはしょうがないと思う。
僕もたぶんそっちに進む。
もしも本当にいい物ってのが作れるなら。

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